人生の走り方〜マラソンにまつわる2話〜

先月21日午前のこと、久しぶりの休日に、ぼんやりテレビを見ていると、往年の名マラソンランナー君原さんがドキュメンタリー番組(1)『ギリシャ マラソンが生まれた道 旅人:君原健二(NHK1994年、再放映)に出ていました。それは、ギリシャマラトンの丘からアテネまでの公道42.195キロを、第1回オリンピック大会の道のとおりに走るというものでした。車の往来の中、高低差220メートルの上りのコースを、当時53歳ながらキロ5分ペースで3時間半の完走でした。
君原さんといえば、オリンピック東京大会第8位、メキシコシティ大会2位、そしてミュンヘン大会5位の戦績を誇るレジェンド。「生来、運動が苦手で、気弱な少年でした。中学2年生のとき、できたばかりのマラソン(駅伝)クラブに、友だちに誘われた。その気弱な性格からどうしても、断れなくてそのまま入部となったのがことの始まり」だというのでした。
その東京大会で、見事3位(銅メダル)に輝いたのが、私たちの世代では知らない人はいない、円谷幸吉選手でした。円谷選手は、その後、亡くなってしまいましたが、それからもずっと君原さんの心の中に円谷選手は生き続け、今回のランも円谷選手と一緒に走るような思いがあったそうです。そして、「もちろん、いつの大会でも、走ったとたんそんなことは言っていられない。自分との闘いですから必死でした」と、君原さんは付け加えていました。ちなみに、(あがきの走り)「苦しくなったらあの辻まで、もっと苦しくなったら次の電柱まで」と心に念じながら走り続けた君原さんは、2016年4月に行われたボストンマラソンに75歳で出場し、5時間を切るタイム。74度目のフルマラソン完走で、途中棄権は一度も無し、だそうです。
番組中には、第1回アテネ大会の優勝者のエピソードが紹介され、興味深いものでした。そのルイス選手のお宅を、君原さんが訪問しての話です。選手の息子の妻だという年老いた女性が取材に応じて、「父と母が知り合って間もない頃の話です。父はさっそく母の自宅を訪ねて母との結婚を申し込んだ。すると母の父親は「今度オリンピックなる大会がアテネで開催されることになったという話だ。そこで提案だが、お前がその大会で優勝すれば、娘を嫁にやろう」ということになった。今までマラソンなどやったこともなかった父は、一念発起、イチかバチ、とにかく大会に出ることになった。そしたら、なんと優勝してしまった。時の王様は、競技場に入ってくる父を見つけてたいそう喜び、皇太子と一緒に、父をはさんでゴールしたのです」と語って、その時の写真がテレビ画面に紹介されました。
さらに続けて、「王様は、「お前の欲しいものはなんでもやろう」とおっしゃったのですが、父は、当時、水売り(水運び人夫)をやっていて、そのための荷車が欲しいと言って、そのときにいただいたのがこれなんです。」と言って、誇らしげに荷馬車に乗るルイス選手の写真を紹介していました。
ちなみに、第1回大会は、沿道に詰めた地元の応援も半端ではなく、その結果、ワインをふるまわれてゴールに着くころにはヘベレケの選手が続出し、また、途中で自転車に乗ってズルをした者まであったそうです。

続いてのドキュメンタリー番組(2)は、『世界わが心の旅 アメリカ 挫折と再生の西海岸 旅人:増田明美、同じく元マラソンランナーであった増田選手の話(NHK2000年、再放映)でした。増田さんは、オリンピックロスアンゼルス大会で初めて採用された女子マラソン大会の日本代表選手です。
今回、思い出のコースに降り立った増田さんの思いとは、「来るときから体調不良でしたが、走ってしまえばどうにかなるだろうと臨んだのですが、16キロ過ぎでリタイアしてしまいました。それで競技場内にある救護室に運ばれたのです。その部屋にはテレビがあって、最後のアンデルセン選手が、ふらふらになりながら、どうにかこうにかゴールにたどり着く・・・、そのシーンが放映されていました。それを目にした、そのときから「あー自分はビリにもなれなかった」「どうしてレースを棄権してしまったのか」との挫折感にさいなまれる人生が始まることになった。2年後、思い切ってアメリオレゴン州の大学に入ってコーチについて本格的に練習を開始・・・。初めてコーチに会ったとき、コーチから「明美はどうして笑わないんだ。君はスポーツ選手の上に増田明美という人格が乗っている。だからマラソンがうまくいかないと性格まで暗くなってしまう」とアドバイスを受け、アメリカで始まったばかりの市民マラソン大会への出場を勧めてもらった。会場に行ってみると、一人ひとりのランナーがそれぞれの服装で、それぞれのスタイルでマラソンを楽しんでいる。それから意識して自分を変えよう、変わろうと努力してきた」というものでした。
番組は、元コーチ一家との再会の場面に移って、家族めいめいの「すっかり見違えるほどに明るくなった」「180度変わった」「笑顔がすてき」などの声とともに再会を喜び合い・・・、見ていても大変ほほえましいものでした。
さて、そのリベンジ(雪辱)のランは、あの屈辱の、海岸通りから市街地へとコースが大きく変わる16キロ地点も無事に過ぎて、・・・しかしながら残り2キロはブランクもあってとうとう歩いてしまいました。が、走り終わってかつての競技場の芝生に大きく寝そべる姿には、それまでの辛かったであろう心持を払しょくさせるような笑顔があふれていました。
増田さんといえば、マラソン大会のテレビ中継で、選手一人ひとりのプライベートにまで踏み込んだエピソードを折り混ぜた、あの、おなじみの名解説は、ランナーにまずパーソナリティ(人格)があって、その上に競技というステージがあるという信念に満ちたものだったのかと、だれにも納得の番組でした。
※残念ながら録画しませんでしたので、本ブログは記憶をたよりになるべく忠実に記述することとしました。
(理事長 矢部 薫)