私の散歩道~武蔵野新田集落を歩く~

長短はあるけれど、十年以上にわたって続けてきた朝の散歩道は、特別のことがないかぎりいつも同じ道で、体調と時間に応じて、2キロ程度から10キロ、20キロと自在に変更(ショートカット)できるコースです。
そのコースの途中、県道8号線の案内標識「茶つみ通り」の起点、狭山市中新田交差点を過ぎたところを右折すると、人も車もめっきり少なくなります。資料『狭山の歴史講座「堀兼地区」』(狭山市民大学)のいう、「1649年に川越藩主松平伊豆守信綱の命により、着手された新田集落」内の、農家の門先を結んだ道路で、地区に住む友だちのいう通称「内道(うちみち)」ということになります。
この道路は、いわば「茶つみ通り」の裏道で、直線的な表道(県道)とは大きく趣を異にした生活道路そのもので、実際に、わずか1キロの間に製茶工場が3軒もあって、中でも最初に左手に見える工場は、古びた板塀の建物と、それに続く茶畑があいまって、この通りの名のゆえんを余すところなく語っているようです。
また、家々の庭先には、梅や桜、桃はもちろん、季節によって色とりどりのパンジー、ろう梅、牡丹、ふよう、むくげ、百日紅、もくせい、菊、葉牡丹などなどが咲いて、散歩者を喜ばせます。特に、サンシュユ、タイサンボク、セイヨウニンジンボクは珍しくて、それぞれの季節のころには、毎年、見入ってしまいます。
やがて、堀兼小学校入口(坂下)の左手に光英寺(1658年頃創建、真言宗)の山門が見えて、境内には念佛二億万遍供養塔があります。上記と同じ歴史講座資料を頼りに文字をなぞれば、「1727年2月建立、堀兼村の村民911人が南無阿弥陀仏の名号を2億万回唱えた記念に建てた」ということです。
折から、享保の改革期、1722年には年貢の徴収法が定免法に変わり、1728年には5公5民に引き上げられたという時代背景にあります。
ところで、真言宗にも同様の、光明真言百万遍(読誦)供養塔があります。ということから推測すると、“光明真言”によって大日如来に救いを求めたのではなく、あえて“念仏”を唱えて極楽浄土を願ったことになり(※寺でも経緯は不明)、当時の村民の心情がしのばれるところです。
寺の右手の急坂を走って登れば、小学校南門にイチョウの大木が植えてあって、秋にはぎんなんが道路いっぱいに落ちます。一昨年までは、それをいただいていたのですが、残念なことに根本から伐られてしまいました。
道なりに校庭のふちを東に迂回すると、右手の旧幼稚園跡地にぶら下がり高鉄棒があって、だらりと下がったあとには、背中を伸ばしたり、腕を回したり、散歩者たちがめいめいに運動していきます。
左手の小学校校庭の中央には、クスノキ大王松の大木があって、運動会時はさすがにじゃまになるだろうと想像できますが、夏には生徒たちに飛び切り上等の日陰を提供してくれるはずです。
その北隣に堀兼中学校が見えてきて、校庭ではアマチュア野球の練習風景・・・。体育館前の掲示板には、模造紙にしたためられた書が貼られてあります。以前は、石川啄木与謝野晶子俵万智の歌、正岡子規高浜虚子石田波郷の俳句などが月替わりで書かれてあって楽しみだったのですが、今は、ずっと『五つの誓い』(註:作者の腰塚勇人氏については教育界では広く知られるところですので、ここでは省略します)のままです。
正門前の自動販売機で水分補給をすませ散歩に戻ると、中学校の隣に慰霊碑が桜の並木の中に見えて、裏面には、当時の堀兼村で第二次世界大戦だけでも戦没者178人のお名前を見て取ることができます。
帰路はこの日の道のり6キロの半分以下、しかも川越城址まで続く細長い台地上のごく緩やかな下りの坂道です。ところどころは住宅地に転用されていますが、先ほどの新田集落を北側から帯状に包む雑木林と、さらにその北側に広がる次の集落の畑が接するところの“間の道”です。
かつて先人たちが開墾地に植林し守り続けて、公園のような景観を誇ったこの林も、この30年来というもの、薪炭用のナラもクヌギも巨木と化し、落ち葉掃きをしなくなった今では生い茂る灌木・下草が人をよせつけない。一部にはタヌキも出たとの話ですが、そうした中でも蛇もカブト虫も元気で、さらにクワガタ虫や、時に玉虫も見つけることができます。
さて、まもなく刑務所裏手の高い塀が左手の景色を遮っていって、中から“早朝体操”といったふうの、勇ましいかけ声が聞こえてきて、今回は、これで散歩は終了としました。
ところで、先月16日夕刻のこと、NHKニュース7で「新資料 昭和天皇との会話を記録した『拝謁記』独自入手 戦争への悔恨・反省 繰り返し語る 幻のメッセージ」の見出しで、「私(天皇)はどうしても反省という字を入れねばと思う」で始まるナレーターの説明により、初代宮内庁長官の記録文がテレビで紹介(情報公開)されました。
このことを加えて、今年の8月は、『平和なくして福祉なし』・・・地域で障がい者とともに生きともに老いて、一昨年12月に86歳で亡くなられた近藤原理氏(※実兄が長崎で被爆死)の言葉が、例年以上に重みを増したことでした。
(理事長 矢部 薫)