藤田会長の悲願~人権の碑除幕式~

先月20日午後のこと、法人事務局入口にある私宛ての決済文書トレーに、ゆうメール(冊子小包)が乗っていました。表の郵便局のシールに草津栗生(局)とありましたので急いで裏を見ると、草津町の藤田さんのお名前が書かれてありました。
私は、思わず「えーっ!本当に!」などの声を上げてしまいましたが、居合わせた職員たちはパソコンから少し顔を上げて怪げんの様子、・・・。私は、喜びを隠せず、かたわらの職員に開封を手伝ってもらい、送られてきた句集『春炬燵』を手に経緯を語り、次には隣室のみどりのまち職員にも説明しました。
職員のほとんどは長くても10年、20年選手。そもそも今回のご縁となった川越親愛学園(現川越親愛センター)二代施設長 丸山豊先生自身までは知りません。今夏、新聞テレビで「心からお詫びする」とした首相談話を通じて、<ハンセン病家族への賠償が確定となった>というニュースは耳にしたことがあるといった風でした。
私は、そのまま自室に戻って「謹呈」の短冊に添えられた挨拶文「図書の寄贈について」を読み返しました。
本句集の作者 藤田三四郎氏は、栗生楽泉園(くりうらくせんえん)入所者自治会長で、前の週の15日夕方のNHKテレビニュース『ハンセン病療養所「人権の碑」除幕式』の放映中、
「療養所に入って、75年目にあたることし、国が責任を認める法律が成立したこの日に除幕式を行うことができ、本当にうれしく、ことばになりません。この石碑を通してハンセン病への理解を広げていきたい」と、インタビューに答えられていました。
私は、テレビの前に立ったまま・・・、(あっ、この人だ。まちがいない!)。次に、「―そうですか、93歳になられて、お元気そうで何よりです!」と、画面の車いすに乗られたお姿に語りかけてしまいました。
この人こそ、今から5年前の本ブログ『ハンセン病の悲劇~丸山先生のご縁~』(2014-08-01)に掲載した“K様(仮名)”、その人でした。私は、そのブログに記述した出来事を昨日のように回想し、(矢も楯もたまらずに)
「もしもし、藤田さんのお宅ですか」と、出られた女性に電話の趣旨を手短に説明しました。すると、
「私は、ここの職員です。今、先生に変わります」と、いったんは藤田さんに取り次いでいただいたので、私は、
「この度は、人権の碑建立おめでとうございます。25年以上も前に丸山先生とお伺いしたその節は、―」と続けるも、「・・・・・」。
すると先ほどの女性の声で、「先生はお耳が遠くていらっしゃって、電話はご無理のようです」とのこと。私は、「「先日、懐かしさのあまり、ファックスでお手紙をお送りさせていただいた者です。ご丁寧に句集までお贈りいただきまして、有難うございました」と、お伝えいただければ有難いです。私がお話ししたいことは、一昨日のお手紙にしたためましたのでご了解されているかと思います」と、伝言をお願いしてお礼の電話とさせていただきました。
句集から代表句“春炬燵(はるごたつ)”を紹介します。
●日盲連文芸大会 文部科学大臣賞2017
定位置にルーペとペンと春炬燵(藤田峰石=俳号)
句集の序文で高原俳句会主宰の三浦晴子氏が絶賛されています。「病気による偏見や差別の苦しみの時代を乗り越えてこられた先に、辿り着かれた今の平穏な日常の幸せが、この一句に表出されている。ほのぼのとした温かさに包まれた秀句である」と。
私には、「目の不自由な人の「定位置」の意味合いは、心中察するに余りあります。その定位置に、しりとり遊びのような軽やかさで(ローマ字表記)「ルーペ」と「ペン」を代表させてもってきた。そして、「春」とは名ばかり、引続き「炬燵」から抜け出られない毎日にあって、屋根を伝う雪溶け水の音だけが日に日に大きくなっている。今年も春はやってきたのだ」と、藤田さんの穏やかな心情とともに、早春の実景までも大きく伝わってきます。
さて、季節はこの俳句とは裏腹に冬到来の12月、草津町内とはいえ道中は山の中、標高千メートル以上、年明けには積雪数メートルにも達する小高い山の上の一集落(療養所)からは、このところの寒気で積雪の便りも聞こえてきそうです。
藤田さんには、石碑建立という大事業を終えられた後も、くれぐれもご自愛の上、詩・俳句・川柳・随筆等々の文筆活動に、末永くご活躍されますよう心よりお祈り申し上げます。
(理事長 矢部 薫)