一筆啓上〜朝の囀りの中で〜

春、5月には珍しい、ほぼ日本列島縦断の台風が、大きな被害をもたらすこともなく通り過ぎました。
台風一過2日目のこの日、いつもの散歩コースの始まりは砂利道で、まだ引けきらない水たまりには咲いたばかりのエゴノキの花びらがすでに“花筏(いかだ)”を組んでいます。
林を抜けるとぽつんと1軒だけの農家があって、その庭先を通る小道で、私たち2人は、早朝の準備にかかるご当主と、元飲食店の女性と鉢合わせになりました。
お互いに「お早うございます」と挨拶し、そして
「いいお湿りでしたね」
「6時半を過ぎると暑くてね」などと、付け加え合って別れました。
少し歩くと、頭の上から小鳥の鳴き声が聞こえてきます。耳を澄ませると、確かに「イッピツケイジョウタテマツリソウロウ」、懐かしいホオジロのさえずりです。
耳を傾けつつ先を急ぐと、元民生委員さんが小走りでやってきました。
「お早うございます」
ラソン中の人には、息を切らせているので挨拶だけで済ませます。彼女には仕事の上で何度かお世話になりましたが、役を退かれた今でも、その前向きな人生スタイルに脱帽です。
途中にある福祉施設の前まで来ると、空き缶の整理に忙しい利用者さんがいて、「お早うございます」の声をかけると、「おはよう!」。元気の良い挨拶が返ってきます。そう、彼は、毎朝、施設の前に設置してある自動販売機の空き缶をきちんと分別処理することを日課としています。
そこに、食材会社のトラックが入ってきましたので、私たちは先を急ぎます。
坂を下って通りに出て、少し幅の広い歩道を歩いてゆくと、途中にある茶畑の農場主がマラソンで追い抜いて行きます。
「お早うございます」
彼の後姿の手足はまだ青白くて、真夏になれば、やがて別人のように真っ黒になることでしょう。
次に、ごみ収集場の前で、顔なじみの主婦と出会いました
「あのう、聞こう聞こうと思っていたのですが、わんちゃんはいかがしましたか?」
「12月に亡くなりました」
「そうですか。この頃見かけないので心配していました。・・・何年でしたか?」
「15歳でした。私たちの年齢を考えると、もう飼えません」
「少しの間、寂しいですね」
<何で何歳とは聞かず、ふいに何年と言ってしまったのか・・・>、通りを折れて坂を上ると、そんな後悔を吹っ切るように、秩父山塊の左手に、雪解けが進んで裾野を青くした富士山が、うっすらと見えてきます。
きびすを転じて歩むと、工場沿いの小道には、フェンスに絡みついた忍冬(スイカズラ)が香気を放っていて、道いっぱいにむせ返るほどの甘い香りが広がってきます。ただし、いくら群生していても風向き次第では花芯に鼻をつけないかぎりほとんど匂わない。そんな穏やかな一面も持っている花でもあります。
やがて、近くの住宅地の並びに戻ってくると、少し親しくさせていただいている家のラブラドール・リトリバー種のやや老犬が、私たちを見つけて走り寄ってきます。
「おはよう!いい子だね!」
フェンス越しに頭を撫でてやると、いつものように顔を摺り寄せておねだりしてきました。
そんな、ある朝の情景に、一句
朝靄に 一筆啓上 囀りぬ(井蛙)
(理事長 矢部 薫)