書道展にて〜「春が来ない冬はない」「―前へ」〜

「書道展にて」(その1、「春が来ない冬はない」)
埼玉会館の地下展示場は、絵画・写真・手芸等々の趣味クラブの発表の場として親しまれています。中でも、書道展は、地味(?)な割に、度々開催されていて、いつしか私は「書道のメッカ」だと、私勝手に吹聴させていただいております。
障害者自立支援法見直し論が盛りの頃よりは少なくなりましたが、それでも埼玉県庁やその周辺の会議・研修室に時々用事があります。用事にはどうしても車が便利ですが、寄る年波もありますので、会議等の終わりが暗くなるときは、なるべく電車バスを使用しております。特に電車バスの場合は、乗り継ぎの関係から、約束の時間より30分以上も早く着いてしまう場合があります。
そんな時間調整で、地下展示場に立ち寄るようになってから10年以上にもなります。
特に、書道展が多い、半分以上は…などと思うのは私の勝手で、実際は写真展も多いようですが、書道という、難解な世界が私を惹きつけるのでしょう。最近では、作品の傍らに書の解説が貼り紙されている展覧会も多くなって、書かれている詩などの内容に触れることも多くなりましたが、相変わらず、ちんぷんかんぷんの漢文や万葉仮名、楷書・行書はともかく、篆書(てんしょ)に及んでは記号の羅列としか思えないものも多くあります。
私はというと、特に楷書にあっては、1字1字についてズームイン・ズームアウトをひたすら繰り返し、いわゆる「アップに耐えられるか?!」を鑑賞することにしています。また、隷書には凛とした品格というようなものを感じる時があります。現代書・前衛書に及んでは、理屈よりもイメージで捉えると結構楽しめます。例えば、「花」字がどう崩れていようとも、私は「さてさて、この<花>は一体何の花だね…?」と眺めていると、ある作品は、真夏のじりじりする直射日光に負けず輝く<ひまわりの花>に見えてきたり、また別の作品では、実がはじけて飛ぶ<ほうせん花>でもあったりするのですから、楽しくなってまいります。
あとは、自由書でしょうか。多くは、童謡唱歌を引用したり、人生訓であったりしますので、書体と内容が絶妙に呼応する場合は、深く感動し、いつまでも脳裏に残ります。
さて、先日の展覧会では、相田みつを氏風の純朴な書体で「春が来ない冬はない」と書かれた書があって、例えば<立春過ぎて残雪の多く残る山(岩肌が書になっている)>にも見えて、≪人間辛抱だ!今年もがんばろう!≫という気持ちにさせてくれるのでした。


「書道展にて」(その2、「―前へ〜『家なき子』〜」)
もう一つは、楷書で

『前へ』

少年の日に読んだ「家なき子」の物語の結びは、
こういう言葉で終わっている。
―前へ。
僕はこの言葉が好きだ。
物語が終わっても、僕らの人生は終わらない。
僕らの人生の不幸は終わりがない。
希望を失わず、つねに前へ進んでいく、物語のなかの少年ルミよ。
僕はあの健気なルミが好きだ。
辛いこと、厭なこと、哀しいことに、出会うたび
僕は弱い自分を励ます。
―前へ。

と書かれた作品でした。
今では書がどうであったか定かに覚えていないくらいですが、当日は詩に感銘を受けて作品から目を離せない。目を離しても頭から離れない。…会議の時間が迫ってきたので、手帳に、「―前へ。家なき子」と記して会場を後にした次第です。
そして、帰宅してもなお、どうしても気になるので、インターネットで検索すると、知る人ぞ知る、大木実という詩人の有名な詩であって、特に教育界で少なからず小中学校の先生たちが「希望を失わず前へ向かって進んでいこう」との思いで、この詩を引用しているらしいことが分かりました。
私も含めて、おしなべて、幸せは「片手でさえ余る」のに、不幸せは生老病死における四苦八苦の苦しみとなって、年経るごとに、人それぞれの人生に覆いかぶさってくるようでもあります。私は、元日のおみくじ「末吉」もさることながら、当分は、この「―前へ」でやって行けると確信したのであります。

そんな今年の埼玉会館地下展示場での、私の書道鑑賞の始まりでした。
(理事長 矢部 薫)