春、彼岸の頃

※前ホームページ工事中の間、『親愛南の里』欄に掲載されなかったNO40以降のうちのいくつかを、今後、合間を見てご紹介していきたいと思います。
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【春、彼岸の頃】
電車を降りると、南に伸びる道筋に、折から花見のイベントが催され、川沿いのわずかな並木にもそれなりの宴がいくつも繰り広げられていた。見覚えのある斎場を過ぎると、少し高くなった丘の一角にお寺の墓地が見えてきた。
話には聞いていたので、それらしき墓地に続いて、やがて見えてきたお寺の前を、私は躊躇せずに通り過ぎた。広い屋敷の表札に「田中」と書いてあるのを確認すると、初めてにしては半分懐かしいような思いにかられて、玄関の呼び鈴を押した。2回押しても家人が出てこない。引き戸に手をかけると、するすると扉が開いた。「ご免下さい」「こんにちは」・・・待っても応答がない。
そこで、今でも農業をやっているという農家風の屋敷内を寺の方角へ歩いて行くと、物置小屋の先に、少し前かがみの年配の女性がいて、その傍らにチェーンソーを持った中年の男性が私に気がついて頭を上げた。「矢部です」「親愛の」と言いかけた時に、その女性は振り返るなり「ああ、先生」とにっこり笑った。
「おかあ(母親)さん、ご無沙汰しております」ひととおりの挨拶が済むと、母親は右足を少し引きずりながら、足場の悪い竹藪の間をくぐり抜けるように、「近道ですから」と言って私を導いた。寺の横から本堂の前に出たところで、「水を用意します」と言って、大木の根が幾筋も地面に浮き出たところに、私を残した。すぐに手桶を持って現れた母親は、次に、「こっちです」と左手の通路を指して、私たちは墓地に着いた。
彼岸を終えたばかりの生花の残る墓石に、花をお供えして、合掌・・・。無事に焼香を終えた。
母親は、「有難うございました」と一礼すると、言葉の間に、「それで、ねよ」と、武蔵野の訛り交じりの言い回しで、私にぽつりぽつりと思い出語りを始めた。私は、「もう、丸3年を過ぎたんですね」と口を開いて、私たちは墓誌に刻まれた故人の祖父や父・祖母の命日を順に追いながら、その年月の家族の状況と故人の境遇を重ねて、2人して「そうだったんですね」と、合槌を打ち合った。そして、母親は、「あの娘は、45(歳)だったんで、少し早いって言えばそうかもしんないけど、欲を言っちゃあ切りはないかんね。みんなにいろいろ世話んなって、あれはあれで幸せだったんだって、思うようにしているんだ」と、小さく何度もうなずいた。
私たちは、もう一度合掌してから、先ほどの、暖炉用の薪作りをしていた庭先に戻った。そして、母親の「駅まで送らせますから」とのご親切を丁重にお断りして、私は暇乞いした。
来た道を少し返して、今度は、菩提寺の山門を背にして、参道左側の満開の桜並木をひとしきり眺めて・・・、それから、私は、降りた駅とは別の方面にある駅に向かって歩を進めた。
(『親愛南の里NO40』平成20年5月1日より、施設長 矢部 薫)