早朝、通りがかりのこと

【早朝、通りがかりのこと】
「(確かに、あの人だ!)」
―彼は、毎日同じ時刻のバスに乗ってやって来て、途中、私たちとすれ違い様に「お早うございます」と笑顔で挨拶をしている人に違いない。すれ違うことができる道のりは、彼の通勤路と私たち2人の散歩道が重なる間の、わずか100メートルばかりの範囲でしかないし、こちらは散歩の時刻を決めているわけではないので、週に1回程度のことかもしれない。それにしても、例えば真冬の夜明けは遅くて、まだ十分に明るくはならない。凍てつく早朝に、特徴のある、手足でリズムを取るように歩いて来る姿は、とても立派なのだ―
この日の夕方、駅に向かうバスには乗客が少なくて、先に乗った彼の脇の席が空いていたので、私は躊躇せずに座った。
「あのー、私が誰だか分かりますか?」と、声をかけると、彼は、少しのけぞるような姿勢になって、メガネ越しに私を見た。そして、あの、朝の、いつもの笑顔に戻った。
「帰りですか。毎日通って来て、がんばってますね」と、続けると、彼は嬉しそうに「うん」と大きくうなずいた。
「明日は、祝日だからお休みですか?」
「会社は土日休みなので、明日は来る」
「(えっ?福祉作業所ではなくて、会社に行っているんだ・・・)、名前は何と言いますか?教えて―、」
「M―、」
「え、えー、M君ですか!それなら、親愛のYさんを知っていますよね」
「知ってる」
「(えーと、M君なら、Y食品会社に勤めていて(休んでいて)、その会社がこちらに移転になって・・・、そうか、だから1年前くらいから、ここに通勤していたんだ)、Mさんは、そこのY食品会社に勤めているんですか?」
「うん」
―今から10年も前のことだろうか・・・、私は、当時、相談事業のコーディネーターをしていたYさんに同行を求められて、一度だけ建具も家具もすべて破壊し尽くされた彼の部屋を訪ねたことがあった。そこに佇む、あの、ひ弱で小さな体の少年が、今、目の前にいる若者であったのだ。・・・、時は、彼をこんなにも逞しく立派に成長させたのだ!―
「お母さんも、元気ですか?」
「うん」
そして、仕事のことなど、とぎれとぎれを楽しむかのような、少し間のある会話が続いて、やがてバスは駅前に着いた。
先に降りた彼は、すぐに人ごみに消えて、私は夕方からの会議に間に合うよう、先を急いだ。
「(今度、会った時は・・・、いや、いつものように「お早う!」と言おう)」
(『親愛南の里NO41』平成20年6月1日より、施設長 矢部 薫)