赤い自転車

我が家の愛犬ラブは、アイリッシュセッター種で、若いうちはぐいぐい手綱を引いて、人間との散歩には余り向かない少し大型の猟犬でありました。
もう5〜6年も前のこと、ある朝、中年の女性が左側通行でこちらに向かって来て、私が愛犬を右側通行で連れて歩いていたので、すれ違い様に犬の首輪をしっかり握って、彼女の通り過ぎるのを待っていました。すると、彼女は「私は犬、好きだからね」と言って、犬の周りを少し遠巻きにして、両腕を広げて、何時でも逃げ出せるような格好で通り過ぎたのでした。
その後、こちらの散歩の時間がまちまちなこともあって、時たまですが、定時に通る彼女とすれ違うこともありましたが、その度に、彼女は必ず「私は犬、好きだからね」と言って、いつものすれ違いパターンになっていくのでした。
ある時、私が「大丈夫ですよ、頭、撫でますか」と犬の頭を彼女に向けると、彼女はとっさに上体をそむけて、無言のまま、すたすたと歩いて行ってしまいました。
私は「ああ、これで嫌われたかな」と思いましたが、私の思いとは別に、何事も無かったかのように、それからも彼女の「私は犬、好きだからね」・・・は、続いたのでした。
そんな、ある朝、いつものように犬と散歩をしていると、前から自転車がやって来て、「キッ」小さなブレーキ音を立てたかと思う間もなく―、「ほら、見て、私、自転車買ったの!」って、見ればいつもと違う彼女のこぼれるような笑顔がありました。私は、すかさず、「そう!良かったね!」と言うと、彼女は「うん」と大きくうなずいて、再び自転車にまたがり、さっそうと遠ざかって行ったのでありました。
しかしながら、それからというもの、私が「お早う、いい自転車だね」などと声をかけるも、得意満面の彼女には、愛車が早過ぎて周りが目に入らない・・・とばかりに、私と愛犬を無視し続けたのでありました。
その愛犬が1年半前に亡くなって、連れが家内に代わって、時折、見かける彼女は、私の「お早う」を、相変わらず無視し続けて、最近では「知らない人には、声をかけられても返事はしない!」とばかりに、少し威厳に満ちた横顔で通り過ぎて行きます。
ちなみに、今朝の私の「お早う」は、彼女の赤い自転車とともに、まるで、少しずつ、少しずつ、古びて行くかのようでもありました。・・・
(『親愛南の里NO43』平成20年8月1日より、施設長 矢部 薫)