“高齢を生きる”〜秋彼岸に思う〜

最近、本屋で高齢者関係のものが目に留まりようになりました。先日買った塩田丸男著『すこやかに生きる』(NHKラジオテキスト)中、1969年のある世論調査「あなたは年齢的に何歳ぐらいの人を老人だと思いますか」によれば、「55歳以上 1.5%」「60歳以上 24.3%」「65歳以上 31.1%」「70歳以上 29.2%」という回答があったとのことです。
もちろん、個人的な思いもあるかと思いますが、最近では、平成20年4月から施行された「後期高齢者医療制度」の影響もあって、75歳以上を老人という大幅な引上げ説?もあるようです。
古くは、農林水産業などの第一次産業を主としていた時代ではおおよそ“人生50年”の期間内で、初老40歳、還暦60歳でメデタシメデタシ・・・ということでも良かったのでしょうが、近年の雇用契約に基づいたサラリーマン主体の社会では、老人という概念は、イコール定年退職(リタイア)年齢とも重なってくるようです。
先日、カーラジオに耳を傾けていると、「私はアリが良い」とか「キリギリスに憧れている」と言っている。さらに、「私には、アリの人生しか考えられない」とも言っている。よくよく聞いていると、退職年齢と退職金の実態に伴う退職後の人生を、イソップ童話に喩えて、「再就職組(退職後も一生働き続けなければならないアリ)」と「リタイア組(退職後は好きなことをして余生を送るキリギリス)」に分けての、FAXによる聴取者参加番組でした。聴取者の意見では「相次ぐ年金支給額の引下げで死ぬまでアリをやるしかない」「細々とでもキリギリスが理想だ」などと、番組では、現在65歳まで定年延長とする国の就業施策を、さらに70歳にまで引き上げる論議をも紹介して、今後の高齢者自らの人生設計を考えていただきたい・・・というようなものでした。
話は『すこやかに生きる』に戻りますが、“老人三訓”を紹介した箇所がありました。初めの二訓「転ぶな」「風邪ひくな」は分かるとして、還暦を迎えた我が身にも、老後の年金頼みの切りつめた生活を考えると最後の「義理を欠け」の意味合いが一挙に分かるような今日この頃となりました。定年退職後は、現役の頃のような広い付き合いを自粛して、収入に見合った、分相応の暮らしを行いましょうということだと思います。
ところで、親愛会の利用者の皆様も大分高齢化が進んで、年齢とともに足腰の衰弱が拍車をかけて「老人」を思わせるような人たちが増えました。特に、南の里では「転ぶな」「風邪ひくな」と利用者の転倒防止、健康管理に、職員一同、気の抜けない毎日が続いております。
しかしながら、皆様が「義理を欠く」ほどの社会生活をして来られたか、していらっしゃるか・・・というと、残念ながら多少の行事以外は、施設内で、あるいは法人内で過ごすことが圧倒的に多い毎日となっております。本人を含めた家族のあり様はいろいろですが、施設入所やグループホーム入居などの結果として、生家を離れて暮らすことの多くなった高齢者ほど、ある意味、最低限の「義理」として、つまりご先祖の、亡き祖父母・父母・兄弟姉妹などの墓参りだけは「欠かせない」のではないか。なぜなら、一般的に、私たちが「義理を欠いて」「欠いて」・・・最後に残る「義理」とは身内の墓参ではないかと考えるからです。
そこで、提案ですが、例えば盆・正月に、春秋の彼岸に、墓参りを希望される利用者の皆様方には、家族の支援が頼めないときは、是非とも、私にお手伝いさせていただきたい。そのことによって、一番大切な「義理」が果たせたら・・・、そして、自らの行く末に思いをはせることができたら・・・、高齢を迎えられた利用者にとってそのことが「すこやかに生きる」ための“一大事”なのだと、信ずるからです。
(理事長 矢部 薫)