『北国の春』はいつ?〜1日も早い災害復興をお祈りします〜

その日、私は埼玉大学前の国道を彩の国すこやかプラザ目指して車を走らせていました。「おかしい」と思う間もなく、車は左右に揺れて、「地震だ!」、前を行く大型ダンプカーもさすがに走るのをやめて、ゆっくりと止まりました。点けていたカーラジオから「緊急地震速報!只今、関東地方で大きな地震がありました!落下物にご注意ください。倒壊の恐れのある建物などから離れて下さい!」。繰り返し流れるのは、妙に落着き払ったアナウンサーの声ばかりで、窓の外に目をやると欅並木の大木がごうごうと唸り、電信柱はかたかたと神経質な音を立てて揺れていました。
私は、とっさに運転席側の窓を開けて、ちょうど反対車線から乗用車がゆっくり進んできたのを確認するや、運転手に地面を指さして、お互いに大地震を確認し合いました。
こんな風に、東日本大震災は、3月11日午後2時46分に、私のところにも突然にやってきて、特に岩手・宮城・福島県沿岸部を高さ10メートル以上の津波となって襲ったのでした。
ところで、東北地方の三陸沿岸は世界でも有数のリアス式海岸を形成していて、私は、35年以上も前の7月下旬、梅雨明け真近のある日の午後、盛岡市内の友人宅1泊後、再三の辞退にも拘らず、「この先には、人家は全く無いから!」と車に乗せられて、少し陽が傾く頃には久慈の港に到着したことがありました。
「じゃ、ここで結構だ。あとは歩いて行くから・・・」
私は、2週間以上にもなる漂泊の身に、この1泊で少し気弱な心が芽生えつつあるのを封印して、4年ぶりの友達と別れました。歩き始めると、車酔いしたものか少しふらつきましたが、身をぶるんと震わせて、後半の一人旅に気合いを入れたのでした。
こうして、三陸地方を、宮古→釜石→大船渡→気仙沼金華山→松島→仙台まで、文字通り雨露をしのぐための橋の下を宿に、ある時は、子供たちに「乞食が通る!」などと石をぶつけられたり、ある時は、年輩者に「(若造)、悪いことすんじゃねえぞ!」といぶかしがられたりの旅ではありましたが、中には、こんなことがありました。
場所は定かではありませんが、この日も海沿いの国道を歩いていると、後ろから「おーい!おーい、待ってぇ!」と声がするので、振り返ると、中年の女性が何やら抱えながら走ってくるのが見えました。すぐに、その人は先ほどパンを1つ買うために立ち寄った田舎の小さな店の主と分かりました。「どうかしましたか」と聞くと、「兄ちゃん、食べて!」と、今日で賞味期限だと言う菓子パンを遠慮する私の上着のポケットに次々に詰めてくれました。有難うと丁寧にお礼を言うと、女性は「何を言う?情けは人のためならず。巡り巡ってお世話になることもある」というようなことを言って、そそくさと道を戻って行ったのでした。
日は変わって、確か、大理石海岸(気仙沼市)だったと思います。今にも雨が降りそうな雲行きの中、しばらく描いていなかったスケッチブックを取り出して、鉛筆を走らせていると、遠くの海の中、腰まで水につかって何やら仕事をしている・・・、その人影が徐々に近づいて来るのでした。私は、知らぬ顔をして、今度は絵の具を取り出そうとしたところ、一瞬、私の絵を覗いた―、かと思う間もなく、その壮年の男性は、「兄ちゃん、昼はまだか?」と聞いてきました。私が「まだです」と言うのを遮るように「これ」と言って、持っていた腰カゴから何やら黒いものをばらばらと落とすように置いて行きました。見ると、ウニでした。それも栗のイガのような食指を動かしているではありませんか。とっさに私は、男性を追いかけて「すいません。有難うございました。でも、どうやって食べるんでしょうか?」と聞きました。男性は、ウニの1つを取り出すと、「ここ、ここを石で割って、海水ですすいで食べるんだ」と教えてくれました。私は、急いで画を仕上げると、恐る恐る・・・、でもウニをお腹一杯、御馳走になったのを、今でも鮮やかに覚えています。
旅も終盤、松島まで遅くとも後1日・・・というところに、小さな浜辺がありました。“支倉常長出港の地云々”の案内があったように思いますが、浜の名は月ノ浦、踏み入れた浜はピンク色に染まっていて、よく見ると小さな花びらのような薄い貝殻が、まるで敷き詰められたように波に打ち上げられていました。倍賞千恵子さんの歌で『さくら貝の歌』は知っていましたので、きっと桜貝に違いないと確信したものでした。
そんな私の大切な思い出を一気に掻き消すかのように、発生3週間後の週末のテレビ報道で見ると、大地震津波とともに、私の記憶の片隅にある美しき村々を破壊し尽し、大勢の人々の命を奪っていきました。
現在、親愛会の各施設・事業所は、地域社会の例外ではなく、完全復旧の見通しもない中、計画停電、食材不足などの状況下におかれています。唯一、高齢・病弱者の多い親愛南の里では、幸い計画停電だけは免れていて、このところの寒さにも震えることなく過ごせて感謝する次第です。
親愛センターも南の里も、例年よりも遅く、少し遠慮したかのように、桜がちらほら咲き始めたところです。しかしながら、彼の被災地にあって、本当の『北国の春』はいつ来るのでしょうか。心痛めるばかりです。
私たちも節約できるところは節約するなど、できることは我慢して、1日も早い災害の復興を応援していきたいと思います。
(理事長 矢部 薫)