去年今年に思うこと〜“意味のないことは起こりはしない”のか〜②

(その2)
季節は秋を迎えて10月4日、聖路加国際病院理事長の日野原重明氏がめでたく100歳を迎えられたというニュースが流れ、特集番組がありました。NHKスペシャル『日野原重明100歳いのちのメッセージ』では、毎日の緩和ケア病棟での末期がん患者の診察や、年100回以上にも及ぶ全国各地で行う講演等で多忙な中、5月には岩手県南三陸町の被災地を訪ね、
―何か自分にできるものはないか、そんな思いにかられてやってきた。
「(津波の)さなかにいるような大きなショックを受けましたね。そうして、そのショックが受難した多くの人の心の中にずっと残っていくんだからね」
と嘆息し、
―100歳を超えても働き続けることで被災者たちを元気づけようと決意し、
「私はねえ、だいたい百十(歳)までは大丈夫だと思っています」
と表明しておられました。そして、趣味の俳句もまじえ、終末期医療に活躍している日野原先生の1年を紹介しておりました。
ちなみに、10月1日の朝日新聞『ひと』欄には、
「人生には無駄な出来事は何一つなく、天からの贈り物に満ちている。100歳は関所であって、ゴールではないのです」
と寄せられ、1世紀を生きた人の感慨として、“人生に無駄な出来事は何一つなく”と言いきる強さが、私を圧倒しました。
(その3)
ところで、J・S・バッハの合唱曲に『マタイ受難曲』があります。この曲は、新訳聖書「マタイによる福音書」のキリスト受難を題材にした音楽作品で、大変美しいアリアや感動的なコラール(讃美歌)に包まれて物語は進行していきます。
この名曲の最終部、いよいよイエスゴルゴダの丘上で磔刑により息絶える寸前に、
″Eli Eli lama asabthani?(エリ、エリ、ラマ・アサブタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか))″
とイエス(バス)が歌います。
私は、レコードやコンサートで聞くたびに、<なぜ最期の最期に、不安、悲しみ、嘆きともとれる言葉を口にしたのか(それも大声で叫んで言ったというのだ!)・・・>そんなことを考えるのが常ではありました。
12月に入って久しぶりにCDで聴いてみると・・・、今回は、明瞭に<神の子として数々の奇跡と予言を行ったイエスだけに許される行為として、予め“意味のないことは起こりはしない”と自らの運命(神の意志)を受け入れ、言葉を含めて全うしなければならなかったはずなのに・・・>との思いが湧いてきました。やがて、イエスはその時、あえて“人の子”としての自らの“死”を引き換えに、「安易に、予め“意味のないことは起こりはしない”としてしまう人間の慢心(奢り高ぶり)」をも戒めたことであったのかと、私なりの自問自答のうちに思い知らされたのでした。
(理事長 矢部 薫)