読みかけの本はありますか?〜知性・感性、そして体力〜

私自身の毎日の充実度を図る指標として、「読みかけの本と、まだ十分に聞き込んでいない音楽CDがあれば(幸せ)」などと、長年、時にふれ折にふれ、友人・知人に言ってきました。
人間の特性として、知性と感性があると思います。知性ばかりでは、いわゆる頭でっかちな理屈ばかりが先行して、学者でもないかぎり、世の中に受け入れられにくいものです。他方、感性ばかりでは、何事も気の向くままとまでは言わないまでも、芸術家でもないかぎり、やはり世の中の風当たりも強くなりがちです。
知性には、一人ひとりに得手不得手、あるいは限界のようなものがあって、それを能力(個性)と呼んだりしていると思います。それぞれ個々人の能力があって、それを発揮したところで、評価し、システム化しているのが社会だとして、その社会システムに脈絡をつけるのが、同じ個性としての感性ということになりましょうか。
例えば、私たちの日常には、理屈は分かるけれど、何時になっても腑に落ちない、合点できないということがあるかと思います。それが、情(じょう)に触れ、感に触れ・・・、つまり知性(計算)の分別に感性(感)としての判断が加わると、案外シンプルに感じたり、美しいとさえ思ったりするものではないでしょうか。・・・すると、自らの意思表明として「よし、分かった」と了解されるのだと思います。
本ブログ<平成24年度の漢字『見』、4月25日付>中で、“現状のレベル”“あるべきレベル”に言及したところですが、人間が生き方にある志向性(ベクトル)を持つとするならば、私たちは書物(知性)や芸術(感性)に触れて、ベクトルの方向・行先として“あるべきレベル(仮定)”を持つこと、持ち続けることが求められると思います。その“あるべきレベル”作りのためには、人生の時々の置かれた状況に応じたいろいろなジャンルの書物・芸術に触れることが大事かと強く思うものです。
とりわけ、福祉に限ってみても、近年の眼まぐるしい障がい者福祉の変遷や取り巻く環境の変化、利用者の権利・虐待に関することなど、情報として知らなければならない事柄が山積しています。また、福祉サービスの基本構造として、詰まるところ「人間、いかに生きるべきか?」という哲学・宗教的な領域も、偏らない知識として得ておくことも避けては通れないところです。他方、福祉サービスにおける受容・共感のような心理手法、そして感情移入などの援助関係技術においては、支援者側の感性が大きな比重を占めていることも事実かと思います。
ところで、人間、初老を過ぎ、50歳を超えてくると、思うように体がついてこない。やがて、大方の人にとって気力・経験ばかりでは体力の衰えをカバーできない事態を実感するところとなります。
私事ですが、50代も半ばの、ある時、腰痛にさいなまれ、近くの病院に行ったところ、医師に「若いうちの体力を貯めておくことはできません」と前置きされ、「人間も生物なのですから半分は身体(体力)を考えてください」とスポーツを勧められたことがありました。
ちょうど折良く、友人に誘われて、ジョギング(マラソン)を始めて、結果6年目に入ります。この間、あちこちの間接・スジ・筋肉を痛め・・・、痛めては、騙しだまし走り・・・、いくつかの市民マラソン大会に出場して、自分なりの完走という充実感も味わってきました。最近では、ランナーとして最低限の筋力も付きましたので大きな故障はめったにありません。が、私も還暦も過ぎた身・・・、いくつかの年相応の病気と付き合いながら、この先、毎日のジョギングで日常生活上困らない程度の体力を維持していこうと思っております。
そのような次第で、冒頭の私の毎日の指標も、本、音楽CDに、「何かしらのスポーツをしていること」を加えることと相成りました。つまりは、「人生は知性に感性に磨きをかけること、そして体力勝負!」を実感する今日この頃なのです。
(理事長 矢部 薫)