“ある”“する”“なる”人生〜生きる構造〜

8月26日早朝、NHK教育テレビ(再放送)『心の時代』「“する人”から“なる人”へ」は、オーストラリアの国立神学センター所長(看護師・牧師)エリザベス・マッキンレー氏の認知症ケア法「スピリチュアル回想法」を紹介し、「患者ができないことではなくできることに注目し、“私は私である”という感覚を取り戻し、生きる意味を見出す助けとなる」ことを、彼女の実践を通して説明していました。
このことは、親愛会で現在進めている、特別養護老人ホーム施設整備計画が実現したら、いずれもっと詳しく研究してみたいところです。
この番組で、私の注目したのは「作家のリック・ムーディ(アメリカの小説家、1961−)は、『老いることは、私たちが、「する人(human doing)」から「いる人(human being)」へ、そして「なる人(human becoming)」へと移っていくための自然の修道院なのだ』と言っています。」というフレーズでした。
ちなみに、リック・ムーディについては、インターネットで調べてみるかぎり、映画『アイス・ストーム』の原作者で、原作も含めて性描写の多いことが敬遠されて、日本では今一つ現代文学としての彼の位置づけができていないようです。そんな状況ですから、R・ムーディがどんな場面でそう言ったのかは、身近なところでは調べようもなく分かりません。
ところで、現代の存在論としてD・ウィニコット(イギリスの精神科医)は「<ある>と<する>というあり方の二重性として人間は存在している」としています。これを受けて、芹沢俊介氏(評論家)は「<ある>は<する>よりももっと根底にある、いまここにいるということ、生きて<ある>ということそれ自体が価値があるのだという視点です。このことに気づくことができるならば、これまで唯一の価値として社会的自己をつくり上げてきた<する><できる>ということを相対化できるように思うのです。」と、彼の言わば『存在論的ひきこもり論』を展開しているとのことです。
これらを私なりに参考(鵜呑み)にするならば、

私たちが人生のそれぞれのステージを考える時、一般的に
①誕生期 <ある(いる)>  (本来的自己)
②成長期 <する(できる)> (本来的自己+社会的自己の拡大)
③老化期 <する(できない)>(本来的自己+社会的自己の減退)
④老齢期 <ある(いる)>  (本来的自己)
⑤死 期 <なる>      (霊的・宗教的自己)

と言えるのではないでしょうか。
とにかく、私たちは“生まれた”―。生まれた以上、人間誰しも、親・兄弟はじめ知るかぎりの人々に期待されて、祝福されて生まれてきた。本来的自己は、全く清浄で、一点の曇りも無い!と言いたいところです。
ところが、吉本隆明氏(詩人、思想家、評論家)の著書『老いの幸福論』によれば「フロイトの言う誕生の瞬間の環境の激変(エラ呼吸から肺呼吸へ)が心の傷、無意識の傷になる。それも含めて、生まれる前、生まれたとき、そして一歳未満までに体験した心理的な傷(不快・不満)が、死への恐怖とか、生きることで感じる孤独感として、すでに負ってきている」というのですから、人間の持つ本来的な自己の不安定さは大なり小なり誕生とともに意識・無意識の根底に一生持ち続けていくものと理解されます。
こうして生まれながらに本来的自己に不安定さを抱えながら、人間、一歳も過ぎるころには、周囲の人間の期待も増大して“這えば立て、立てば歩め”に後押しされて、勢い何でも学習(吸収)したがります。一挙手一投足、喃語を発しては「(お話が)できた、できた!」と囃されて、いつしか学校教育のお陰をもって高度な知識・技術を習得するに至ります。すると、このことが社会的に評価されて就職に至ります(社会的な自己の拡大)。
その「仕事をする」という社会での活躍も経ってみれば束の間・・・、やがて定年(退職)を迎える時期ともなれば「できない、やれない」ことが増えていって、いつしか元の黙阿弥・・・、還暦を過ぎる頃ともなれば、生来、漠然と感じていた「死への恐怖」「孤独感」がめらめらと頭をもたげてまいります(社会的自己の減退)。

ところで、長い人生にあっては、社会的自己が家族・世間が認めてくれるレベルに達するまでに少し時間がかかったり、足踏みしたりすることがあって、何時まで経っても周りが認めてくれないという葛藤に陥ることもあるかと思います。このことが、自尊心を傷つけ、結果、本来的自己も見失って、最小限の集団(社会)としての家庭内にあっても不適応症状に陥ってしまうことにもなりかねません(家庭内暴力等)。
また、せっかく就職して社会的自己を活躍させていても、周囲の無理解などふとしたことがきっかけで仕事に行かなくなってしまうこともあるでしょうか(ひきこもり等)。
時に、トラブルを起こしてしまい、結果、刑に服することによって、一定期間、社会的自己を停止させられてしまうこともあるかと思います(触法等)。
私たち福祉職員は、こうして本来的自己の修復や、社会的自己への復帰を支援していくことを目的に、日常業務の中で、時に介助・介護を、時に意思決定支援を行っていく。その意味では、冒頭の「スピリチュアル回想法」と全く同じなのだ。すなわち対人援助技術は認知症ケアと原理を同じくして、権利の主体としてエンパワメント、「その人間が持つ本来の能力を引き出し、自分自身の生き方を自分自身で決めていく力を養い、特に対人関係能力を社会生活を営む上で支障のないレベル・より望ましいレベルまで向上させる」ことを支援することだと思います。
さらに、死期への準備・心構えとして、前述のR・ムーディはキリスト教圏の考え方として、本来の神の国に生まれることを前提として「なる」としたのではないかと推測されます(自然の修道院)。が、多くの日本人にとっては、人生を「これでいい(か)」と半ば肯定して、結果、諦念・・・の末、神仏に手を合わせる、そして大安心(だいあんじん)を得るなどして、言わばそういう心境に「なる」ことかと思われます。
私たちは、生きる構造をこのように理解することによって、自らの人生を、対人援助としての他者の人生を、日々有意義に考えたいものです。
(理事長 矢部 薫)