Kさんのこと〜ホテイアオイの浄土〜

去る8月11日のこと、少し時間が空いたので「布袋葵(ホテイアオイ)」の花を見に行くことにしました。
昨年の夏こと、偶然、週末のジョギング中に道端の水槽に咲いていた数輪のホテイアオイの花が私の目に留まって、以来、どこかで見た花だと気に留めていました。それは10年以上も前のことだったでしょうか・・・、確かに私の記憶の隅に花は咲き続けているのです。果たして、そこは、数日前のテレビの天気情報でわずかに紹介されていた県北の“道の駅「童話のふる里おおとね」”に違いありません。
・・・やがて、鴻巣市加須市・・・、そしてたまにしか通らない道をたどるように車を走らせて行くと、旧大利根町に入って、まもなく目的地が見えました。記憶の甦るところ、駐車場の左手奥の田圃に、確かにホテイアオイの花は今を盛りと咲きそろっていました。
ご存知でしょうか、6弁の長円形の薄青色の花びらの一番上の花びらはやや大きくて、まるで仏様の光背のごと花芯から放射状に青筋が立っていて、周囲を紫色に囲んだその中に・・・、黄色(黄金色)に輝く阿弥陀仏は、おぼろげに、かつ実感としておごそかに納まっています。それがあたり一面に咲いているのですから、まるで浄土そのものなのです。
すっかり堪能して車に戻ると、やがて「ヤベてんてえ(先生)、おらがち(俺が家)に寄ってくんな!」とKさんの声が聞こえたような気がしました。
そう、この辺にかつて親愛会をご利用していただいたTさんがいるし、川向うにはKさんもいて、Tさんにも「ヤベちぇんちぇえ(先生)、うち(家)に遊びに来て!」と、再三声をかけていただくことがあって、時にプライベートで通りかかった折に、帰省中の2人を何度か訪問したことがありました。2人とも県北の片田舎で育った純朴な温かい心の持ち主でした。
その後、Tさんは別の施設に移り現在は生家に戻られてご健在の便り。Kさんは、引続き施設を利用しながら、でもここ数年は入退院を繰り返したその末に、昨年暮れに亡くなられて、明後日からは新盆のはず・・・、正式な墓参はともかく、今日なら個人的なお参りをさせていただける。そんな思いでKさんのお宅にお邪魔した次第です。
記憶を頼りに、どうにかたどり着いたお宅の玄関を開けると、間もなくお母さんが出てきて、まずは大きな西瓜のお供えしてある仏壇に焼香をさせていただいて、墓参のお願いをしました。
早速、お母さんの道案内に従って右折に左折、やがて車を停めると、そこは周囲を青々とした稲田に囲まれた小高い丘の上、共同墓地の一番手前の1本の大きな木の近くにお墓はあって、途中で求めたわずかばかりの花をお供えさせていただいて、合掌・・・。墓誌を眺めている私に、お母さんは少し語尾の上がった方言まじりに、「でもね、父親より長生きしたんだから、よくがんばった。そう思うようにしてんだ。そうでないと何時までたっても気が晴れねえ」と言って、少し笑った。そして、「ここらは昔、一面、桑園が広がっていた。けども、水がひどくて、随分洪水にやられた。そこで、ここら一帯の土を掘って堤防を築いた。だから、墓地だけ残して、低くなったとこは田圃が広がったってわけさ」と続けました。
Kさんのお母さんといえば、平成2年11月、前年に創刊したばかりの『親愛だより』第19号<保護者コーナー>に「長男の子供の頃」と題した一文を寄せていて、私は編集後記に「Kさんのお母さんは「かあちゃん」と呼ぶにふさわしい、まぎれもない“日本の母”その人です。保護者会に遠路はるばるお越しくださるお姿には、障がいのお子さんを育ててこられた母親としてのたくましさが感じられます。それにしても、Kさんが生まれた頃のお母さんは、20歳そこそこのうら若い女性なわけで・・・、(文中の数々の場面で)流された涙の無念さがひしひしと伝わってきます」と記しております。
かつて、当地では働き者で知らない人はいないほど有名だったお母さんも、つい、ご子息夫婦に気兼ねの言も出て・・・、私は、まあまあなどと取り繕い、突然の、勝手気ままな墓参を詫び、今後のご自愛をお願いして、帰途に着きました。
かくして、この夏の、昨年続きの酷暑を、あるいは嘆き、あるいは恨みつつも、季節は着実に秋となって・・・、そして間もなく、12月。Kさんの一周忌です。
ふる里は 母の迎へる 冬田かな(井蛙)
ご冥福をお祈り申し上げます。
(理事長 矢部 薫)