『遠野物語』に思いをはせて〜特養ホームの黎明〜

111 山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺及火渡、青笹の字中沢並に土淵村の字土淵に、ともにダンノハナと云う地名あり。その近傍に之と相対して必ず蓮台野と云う地あり。昔は六十を超えたる老人はすべて此蓮台野へ追い遣るの習(ならい)ありき。老人は徒(いたずら)に死んで了(しま)うこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊(ぬら)したり。その為に今も山口土淵辺にては朝(あした)に野らに出ずるをハカダチと云い、夕方野らより帰るをハカアガリと云うと云えり。〜『100分de名著柳田国男遠野物語”』より原文抜粋〜
40年近くも前のこと、初めて職業に就いたばかりの私は、賞与をほとんどつぎ込んで、それまで図書館通いで済ませてきたいくつかの全集を手に入れたことがありました。そして、暇なときは読書三昧と決めていたはずでしたが、時は月日をあっという間に飲み込んで、さらに年月をも10年単位で飛び越してしまったかのようです。柳田國男集もそんな1つで、背をそろえた本たちは書棚を飾るだけで、当時のまま、全く手つかず、いつしか老後にのんびりと読めばいいと思うも、少し弱りだした脳細胞は本当に全巻読ませてくれるのだろうかと不安がよぎるのです。
先日、電車バスの中で読んだ『100分de名著柳田国男遠野物語”』はテレビテキストながら、改めて遠野物語の世界を知り、そして考えるところとなりました。
上記の話は、現在の岩手県遠野市のいくつかの集落の近くに、それぞれダンノハナとデンデラ野(※柳田は“蓮台野”と表記。)と呼ばれる小高い丘が必ず対になってある。ダンノハナは形態はともかく集落の墓所デンデラ野はさしずめ老人たちの、雨露をしのぐだけの粗末な小屋のある場所といったところでしょうか・・・。
この物語の初版は明治43年、今から100年前の刊行ですので、それよりも以前(昔)のこと、集落ごとに、60歳を超えた老人はすべてデンデラ野へ追いやられるのだというのです。集まった老人たちはといえば、無駄に死んでしまうわけにもいかず、日中、元気な人は住み慣れた集落に下りて行って、農家の手伝い仕事をしてお昼をいただいたり、時には残りのおかずを持ち帰って、仲間の空腹を癒す日々を送ることになるのでしょう。
そのうちに、弱ってきた仲間から順に死を迎えることになれば、ふもとの生家に知らせが行くのでしょうか。その老人の家族は、少なくとも長子は、亡骸を集落の反対側にあるダンノハナ墓所へ運び、弔うことになると思います。さらに、私の想像を膨らませれば、そこは、両墓制の埋め墓・詣り(まいり)墓と分かれていた時代には、日頃お詣りする集落内の寺の境内にある先祖からの墓所とは別に、やがては朽ちていく木の札を目印とする程度の野原の片隅に埋葬するだけの墓所なのかも知れません。
古き日本の一地方の風習とするには、今一つ真偽を証明するものもなく、“伝承”の域を出ないそうですが、若いうちを集落で生活し、還暦を過ぎたらデンデラ野で暮らし、死後はダンノハナに埋葬されるという構図が目に見えるようです。
このデンデラ野を特別養護老人ホームの原点とみるべきかどうかはその後の老人福祉の系譜を調べないと分かりませんが、このことが他の姥捨て山に代表される“棄老伝承”とは違って、理由は口減らしであったとしても、半ば集落の掟(ルール)の中で老人たちが宿命として引き受け、いわば生老(病)死のシステムとして機能していたように思えてならないのは私ばかりではないと思います。
つまり、デンデラ野の生活は、農家の手伝い仕事による“自助”、老人同士の“共助”、そして老人と村人との“互助”で成り立っているかのごときです。これに介護保険制度を当てはめると、介護の部分を第三者が担う(“公助”)ことにより、現在の特養ホームという形になると思われます。
この6月に、国は介護保険財政の立て直しを目的に医療・介護改革法を成立させて、来年4月より特養ホーム入居者を原則要介護3以上に限り、8月より年金収入280万円以上の利用者の負担割合を1割から2割に引き上げることとしました。高齢化がピーク(3割)を迎える2025年を見据えての、実質、負担増・サービス縮小の時代にあって、私たちはいっとき上記、遠野物語の伝承にも思いをはせて、これからの在宅福祉も含めた高齢者介護のあり方を考えてみるのもよいかと思います。また、このことは、とりもなおさず、私たちが高齢期を迎えた時にいかに生きるべきかを考えることにもつながる、と思えるからです。
ところで、先日、川越市内のある地区の老人クラブ会長に就任したという知人から、「矢部さんも60歳を過ぎたんだから地区の老人クラブに入りませんか」と誘われたことがありました。そして、「入ったらすぐに役員だ。なんせみんな年寄り、入った時が一番若いし、動ける。いろいろ手伝ってもらわなければ・・・」と、畳みかけて勧誘に熱心でした。
それから1週間後の、ある会の集まりで、期せずして親友2人から、「今回、俺たちは老人クラブに入った。結構いい」とあっさり言われたこともありました。私は「早くないか」と尋ねましたが、2人は口をそろえて「なあに、今がちょうどいい。割りと楽しめるよ」などと真顔で答えていました。
私には、上述のデンデラ野の暮らしをこれ以上推量する力はありませんが、その伝承と本質的なところでつながるのでしょうか、相前後した年恰好の知人も親友も自らの老いを素直に受け入れて生きていく、先ずは、その潔さ(いさぎよさ)に脱帽の思いがしました。
(理事長 矢部 薫)