ハンセン病の悲劇〜丸山先生のご縁〜

先月22日夕方のNHKテレビで、「天皇皇后両陛下がハンセン病療養所を訪問され、今回で全国すべての療養所の元患者との懇談を果たされた」とのニュースが流れました。それに先駆けて新聞報道もありましたので、改めてハンセン病のことを想起された方もいらっしゃるかと思います。
それよりも前の、6日の日曜日に、NHKアーカイブスハンセン病の悲劇を繰り返さないために』と題したテレビ番組が放映されました。「今年5月、ハンセン病患者への差別と闘ってきた代表的人物2人が相次いで亡くなった。ハンセン病の悲劇を繰り返さないためには何が必要なのか、どう語り継ぐのかを考える」という番組でした。
前半は、1907年(明治40年)に成立した「癩予防ニ関スル件(癩予防法)」により、隔離政策を始めた時点から1996年の「らい予防法」の廃止に至るまで、当事者・関係者からの事情聴取をもとに歴史的経緯を検証した貴重な資料(2001年放映)でもありました。
日本の予防法成立後まもなく隔離政策は間違いだと改めていった諸外国に逆行して、隔離をますます強めていったこと。日本の予防法の歴史は、時には手錠をも用いて強制連行をしたこと。まるで刑務所のような重監房に規律違反者を監禁処罰していたこと。元患者同士の結婚に際しても条件として課した断種手術を養豚の去勢手術担当看護長が執刀したこと。帝王切開により妊娠8か月の嬰児まで堕胎手術をしたことなど、想像を絶するものでした。
病気が治ってもなお療養所にとどまらざるを得ない元患者の屈辱と、病気発生を忌み嫌う地域社会の差別と、結果、村八分にされ、そして時には兄弟姉妹の自殺まで引き起こしてしまう家族の不幸が、隔離政策という基軸の周りを悪循環していく悲劇(負のスパイラル)となって、100年もの長きにわたって続いてきたのでした。
後半は、元ハンセン病患者の平沢保治さんの、多磨全生園での地元の小学生との交流(2002年放映)、そして、68年ぶりの帰郷となった母校(小学校)での講演会の模様を取材したもの(2008年放映)でした。平沢さんは「母の墓は見えてもわたしの降りるところはなかった。わたしたちには生まれた所はあってもふるさとはないんです。血のつながった兄弟はいても肉親はいないんです。・・・でも誰にも恥じない生き方をしているし誰にも負けない生き方をしているし・・・、わたしは笑顔でこの学校を卒業した先輩として錦を飾って皆さんに会いに来ました」と語って、大変印象的でした。
見終わって、今なお、全国14か所の療養所で暮らす2,000人以上の元患者の皆様(15か所2,144名2012年調べ)の無念さが、私の心の奥底にひしひしと伝わってきました。
話は少し変わって、今から25年近くも前のこと、ある日、当時、川越親愛学園施設長であった丸山豊先生は、「明後日、同行してくれないか」と、私に運転業務を求めました。
当日到着したところは山の中、いえ正確には標高千メートル以上の、冬には積雪数メートルにも達する山の上にある、一見小さな集落でした。秋口とは名ばかり、太陽は避暑地、群馬県草津町の、さらに高度を増したところにも容赦なく照りつけていました。
丸山先生は車を降りると「確か・・・」などと呟きながらずんずん歩いていって、郵便局の前を過ぎて、私を置いて管理棟に入りました。そして、管理棟の玄関先で、ある人と待ち合わせることとなりました。
その集落の名は、国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」、面会する人の名はKさん。その年の春先、親愛後援会にお金をご寄付いただいた方でした。当時、事務を担当していた私は領収書もお礼状もそのままにしていたので、「当日お渡しできる」の一念の同行でした。
まもなく来られたKさんは、私たちを集会室に招いてくれました。玄関から部屋に入ると、丸山先生は勧められた座布団を外して、額を畳に付けたと思うと、そのまま、開口一番「申し訳ありませんでした。元公務員、そして国民の1人として、不当な仕打ちの結果で招いた先生の長年のご苦労に対しお詫び申し上げます」と、二度ほどうーっと声を出して涙し、詰まりながら、それでも明瞭に謝罪の言を続けました。
Kさんは、「まあまあ」「丸山さんは、今どちらに?」などと言いながら、私たちに面(おもて)を上げるよう促して、お茶を出してくれました。
丸山先生はお茶を一口いただいて、それから、「お久しぶりです」と、改めて一礼してお互いの空白期間を埋める話をされていました。
私は、「領収書は、K様(仮名)でよろしいでしょうか」と確認させていただいて、お礼状ととともにお渡ししました。
すると、Kさんは「わずかの印税から出したものです。どうぞ施設の皆様でお使いください」と優しく微笑まれました。私たちは、少しの時間を和やかに過ごし、そして帰り際に『栗生楽泉園患者五十年史「風雪の紋」』(栗生楽泉園患者自治会発行)をいただいて、改めてお礼を述べ療養所を後にしました。
ところで、Kさんが誰であったのか、丸山先生とどんなお知り合いであったのか、丸山先生が1周忌を迎えた今となってはどうにも分かりません。
ネットで検索しているうちに、『ハンセン病元患者の俳人、村越化石さん死去』(2014.3.10朝日新聞)という記事が目に留まりました。出身地の静岡新聞によると「ハンセン病と闘いながら俳句に精進し、「魂の俳人」として知られた村越氏が、8日、老衰のため療養施設で死去した。91歳。自宅は栗生楽泉園。告別式は近親者のみで行った。・・・新聞俳句への投稿をきっかけに「化石」と号して創句活動に取り組んだ。病や失明などの苦難の中、望郷の念や母への愛を込めた俳句を詠み続け、昨年には卒寿記念の句集を上梓した。蛇笏賞。」とありました。
村越さんは、Kさんに似ているようでもありますが、私の記憶がすでに曖昧になっていますので、確信はできません。
代表句をご紹介します。
除夜の湯に 肌触れあへり 生くるべし
―「(昭和25年)画期的なプロミンの出現によって、療養所のすべてが明るくなりつつあった。私自身の場合、予測されていた死の危機から脱出できて<生くるべし>の言葉を吐いた」(化石)―
今生に 長居して聞く きりぎりす
故郷は世界で一番遠い場所、亡くなられてもなお帰ることもできずに納骨堂におさまる幾多のハンセン病元患者の皆様(16,993名、2003年調べ)と、俳人の村越さんと、そして思い起こすごとにお人柄が深く偲ばれる丸山先生のご冥福をお祈り申し上げます。
(理事長 矢部 薫)