先達に“薫陶”あり〜気骨あるお二人のご逝去〜

新年早々に、訃報が届きました。社会福祉法人幸仁会理事長の野村吉茂先生が1月1日にご逝去されたというのです。昨年の11月4日に啓和会常務理事の池並雪枝先生が亡くなられたばかりですので、届いたFAX文を見るや、私は「ええーっ!」と声を上げてしまいました。
実は、本ブログ欄に池並先生の思い出を書こうと決めていたのですが、先生にご指導を受けた福祉関係者は自法人から県内外に及んで、私以上に教えを受けた人たちも多くて、ゆえに、その記述にためらい、年を越してしまったところでした。
池並先生には、川越親愛学園第2代施設長であった故丸山豊先生に紹介されて、以来、“薫陶”という言葉がぴったりするほどのあり余る教えをいただいた私です。
先生は、埼玉県発達障害福祉協会の会長を務められたこともあって、調査研究委員を続けていた私を見かけると、時折「丸山先生が褒めてらっしゃったわよ」「どう、元気してる?」などと声をかけて下さいました。そうしているうちに、県発障協の理事に欠員が生じると急きょ呼び出されて、「矢部さん、理事におなんなさい」と“鶴の一言”。理事の末席を汚させていただいたことがありました。
当時の私は、“残任期間”にこだわって、改選総会には出席しないと決めていたので再任はありませんでした。ところが、そのようなことが二度続いて、そして三度目には先生から「困ったときの矢部頼み」との電話・・・、補欠理事を引き受けるや、おまけに先生自らの会長後任に担ぎ出されてしまった次第です。この間の理事会では、私の発言が場違い、筋違い、あるいは突拍子もなかったのでしょうか、先生は度々「ヤベは宇宙人だから」と評して笑っておられました。
しかし、私が会長になってからは、一転、折からの障害者自立支援法成立・施行、あるいは全国及び埼玉県知的障害児者生活サポート協会設立をめぐっての制度変更に伴う具体的な話題になるや、「バカ言ってんじゃないよ!」「しっかりしな!」「冗談じゃない!」などと、知る人ぞ知る“べらんめぇ”調でまくし立てて、手厳しい。ついには「もうあんたの話は聞かないよ」とばかりに背を向けられることもありました。その多くは利用者負担の問題で、「おだてられて2階に上ってみたら、次には梯子を外されたってとこ!」と、国に対して、国・県協会の取組みに対して一刀両断、その揺るぎない姿勢に、私たちは深く強く叱咤激励されたのでした。
最後にお会いしたのは、昨年9月初旬の病床。痩せられたとはいえ言葉はしっかりしておられて、私の手を握り、「ありがとうね。これで安心しました」と笑顔を交わせるうちにお見舞いすることができました。
野村先生にお会いしたのも、やはり丸山先生の時代、同じ頃だったと思います。しかしながら、破天荒と見られるその人柄から発せられる「福祉だけしか知らねえやつは“福祉バカ”って言うんだ!」などの言動のすさまじさには、若き日の私ごときには太刀打ちできず、できればお会いしたくないお一人ではありました。
その先生とは、私が会長時代に度々、県庁廊下で出くわしたことでした。ある時、先生は、挙動をいぶかる私の顔を見るなり近寄って来られ、「オレが行くのは農林部か商工部だ。福祉には用はない。今どき福祉課に行くやつの気が知れねえ」と大胆に笑って先を急がれたことがありました。もちろん、先生は通所施設で竹箒作りから始められて、当時は県内産の木材を使った自主製品作りで東奔西走の毎日・・・、その後次々と新製品を開発されて、今でも一流の木工製品技術と、高い授産工賃を誇ると聞き及んでおります。
最後にお会いしたのは、池並先生の告別式終了後、駐車場に立ち止った私たちの前を通り過ぎながら「矢部さん、池並さんを偲ぶ会をやろうな(きっとだよ)」と、笑顔でおっしゃっておられたのが強く印象に残っています。もちろん、私も、心のうちを同じくするところ、すかさず「はい、分かりました(必ず)」とお応えしたのでした。
私たちの先達、当時、県発障協会長であった美里会の倉上岱三先生が急逝されて久しく経ちます。加えて、今般このお二人の先生の相次ぐご逝去に接し、<一時代が終わった。昭和の時代から障がい者福祉を担ってきた、個性ある大人物の世代が一人もいなくなってしまった>の感は、社会福祉法関連法案の可決成立を目前にした県内の障がい福祉関係者の多くが抱くところではないでしょうか。
今となっては、お二人の優しさばかりが脳裏をかすめます。
先達の 踏み遺しけり 去年今年(井蛙)
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
(理事長 矢部 薫)