あるがままに見て心は安らかに〜般若の智慧「如実知見」〜

ある仏教学者が隣家からのもらい火で、自分の家が焼けてしまいました。貴重な蔵書も、書き溜めた研究論文も、何もかも灰になったのです。彼は隣家に仕返しをしてやりたいと、悶々とした日々を送っていました。
そのとき、彼は、自分の家が隣家から「焼かれた」とこだわっていることに気づいた。それで「焼かれた」のではなく、自分で「焼いた」のだと思うことにしました。だが、どうしてもそんなふうには思えません。あたりまえです。彼が「焼いた」のではありませんから。
最後に彼は気づきました。自分の家は「焼かれた」のではなく「焼いた」のでもない。ただ「焼けた」のだ、と。そう思えたとき、彼の心は安らかになりました。この「焼けた」といった見方が如実知見(にょじつちけん)であり、空(くう)に基づく般若の智慧(はんにゃのちえ)です。この般若の智慧によって、私たちの心は安らかになるのです。
これは、自称「仏教原理主義者」としている宗教評論家ひろさちや氏の、NHKテレビテキスト『歴史は眠らない』“お経巡礼”(2009.6)中、“般若心経〜心を癒す処方箋〜”の一文です。
ひろさんといえば、分かりやすい言葉で仏教を解説されることでお馴染みの仏教学者で、これまでに280冊以上の著作、60冊もの共著・編著を重ねています。また、テレビあるいは講演会で話を聞かれたという人も多いかと思います。今年80歳ということです。
上述は、仏教の中心的な考え方『空』にもとづいた智慧“如実知見”を平易に説明したたとえ話です。
内容は、ある仏教学者が、隣家からのもらい火にどう対処されたかという話です。
まず、当人の自宅の中には貴重な蔵書、中にはもう二度と手に入らない書物もあったのではないかと想像がつきます。学者業(研究)になくてはならない仏教書・古書の類いは、お宝としての価値も考えられなくありません。その上、これまでの人生をかけて営々として書き溜めた、いわば命の次に大切な論文も含め灰燼(かいじん)と化したのです。わが身の無事を感謝する前に、これからどう生きて行ったらよいのか・・・、当人の苦悩が始まります。
一般に、<失火の原因が隣家の「重大な過失」である場合を除き、損害賠償請求はできない>(民法)のです。当人はそれを知りつつも、どうにか仕返しをしてやりたい。でも、隣家も廃墟と化していて、仕返しのしようもない。まさか犯罪に手を染めるわけにもいかない。どうにもこうにも腹のおさまりようがありません。
そんな毎日を送っていた当人は、さすがに仏教学者です。この悶々とした苦しみは、自分を、家を「焼かれた」被害者としている(執着)からに違いない。そういえば、隣家との間が狭すぎていたし、不燃仕様の壁でもなかった。ならば、人に「焼かれた」のではなく自分が不注意で「焼いた」と思うことにしよう。当人は、そんな意識の転換を図ろうと試みたのです。が、明らかに火元ではない。どうしても心はおさまらないのです。
そして、最後に、自分の家は「焼かれた」のでも「焼いた」のでもなく、ただ「焼けた」のだと気がついた。原因は、もらい火でなくても、星が降っても飛行機が落ちても同じこと、事実として「焼けてしまった」のだ。そう思えたとき、やっと心がやすらかになったというのです。
それからの当人は、心の安定を取り戻し、あとは、家を建て直すか借家暮らしに落ち着くか。とりわけ蔵書のリストと論文が研究室のパソコン上にバックアップされているかどうか。さしあたって今日をどうするか。目の前の課題を整理して考えたことでしょう。
ここで、上述同文中より、抜粋文をいくつか紹介します。
日本人は、「地獄と極楽」といったように二つを並立して受け取りますが、本当は極楽に対比されるものは娑婆(しゃば)なんです。娑婆というのはわれわれが住んでいるこの世界です。その娑婆の中に、天界・人間世界・修羅の世界・畜生界・餓鬼界・地獄界の六つがあり、六道輪廻といって、われわれはその六つの世界を輪廻転生しています。
私たちは、(その)娑婆の世界で、どうしたら損をしないですむか、どうしたら得をするか、そういう知恵ばかりはたらかせて悩んでいます。
空にもとづく智慧は、物事をあるがままに見ます。このあるがままに見ることを、“如実知見”と言います。あるがままに見ることは、こだわりなく対象を見ることです。
さて、親愛会では、4月に入職した新任職員あるいは異動した職員の皆様方には、それぞれの職場で、5月を迎えて一段落といったところでしょうか。
新たな人間関係の中で、思うようになることも、思うようにならないこともあるかと思います。私たちの福祉現場は業務標準表に基づいたチームワークの仕事なので、馴れないうちは思うようにならないと思えることが少なからずあるかもしれません。
私たちは、職場という社会の中にあって、いつしか悩みを多くして、結果、実体のない知恵の中で他人を責め続け、そういう自己をかえりみることもせず、自らと自らのまわりを地獄としてしまうようなことのないよう、物事をあるがままに見る“如実知見”の智慧をもって心安らかに生きたいものです。
(理事長 矢部 薫)