福祉の仕事を介した自己実現〜人生の納得性〜

先日、本法人の来年度職員採用のための見学会がありました。その冒頭のあいさつの中で、私は
「私たちの人生は、マズローによれば、まずは生きてゆくための最低限の給与を得て、(生理的欲求)お腹を満たし、(安全欲求)アパートも借りたい。そのために(社会的欲求)就職したい。できれば家族を持ちたい。そして、実績を残し、(尊厳欲求)他から認められ、(自己実現欲求)自らの能力の実現を図ることにあります。自己実現といっても、芸術家ならば音楽・絵画に作品として遺すことが可能ですが、あいにく社会福祉事業では支援や介護をとおして“人を支える”だけで形には残せません。しかしながら、利用者の皆様方との数々の出会いの中から、携わってきてよかった、生きがいのある仕事だったと思える人生が送れる素晴らしい職業だと思います」と、話しました。
そう、生きざまの全き肯定として、自己実現は、人生の質としての納得性のうちに終える大往生に、その究極はあるのかも知れません。
話を少し変えて、芥川龍之介作『蜘蛛の糸』(あらすじ)を紹介します。
釈迦はある日の朝、極楽を散歩中にふと蓮池の底から地獄をのぞき見た。
すると、罪人といっしょにうごめいているカンダタという男が目に入った。カンダタは殺人や放火もした大泥棒であったが、生前に一度だけ善いことをしたことがあった。それは林の中で一匹の小さな蜘蛛(クモ)を踏み殺しかけて止め、命を助けたことだ。それを思い出した釈迦は、彼を地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸カンダタのところに下した。
暗い地獄で天から垂れてきた銀色に光る蜘蛛の糸を見つけたカンダタは「この糸を上れば地獄から出られる」と考え、糸につかまって昇り始めた。ところが途中で疲れてふと下を見下ろすと、おおぜいの罪人たちが自分の下から続いてくる。このままでは重みで糸が切れるだろう。カンダタは「この蜘蛛の糸は俺のものだ。下りろ。」と喚いた。その途端、蜘蛛の糸カンダタのところから切れ、彼は再び地獄の底に堕ちてしまった。
それを見ていた釈迦は悲しそうな顔をして蓮池から立ち去った。
(大正7年4月に創刊された児童向け文芸雑誌『赤い鳥』に発表)
私たちの世代では、中学校の教科書に載っていたものか、夏休みの読書感想文用の本の1冊だったか、私の記憶は定かではありませんが、誰でも知っている児童文学作品です。
ひろさちや氏著『お経巡礼』(NHKテキスト)によれば、「仏道修行というものは、じつをいえば(仏様が下してくださった)蜘蛛の糸をのぼるがごとき行為です。長い長い距離、無限ともいうべき距離をのぼって行かなければなりません。しかも自分の力でのぼるのです。これが「自力の仏教」です。これが仏教の基本形です。」というのです。
これでは、祖師・先達の遺した公案を頼りにひたすら坐禅する修行僧でなければ、とてもかないそうにない道に違いありません。
続けて、ひろ氏は「そこで「他力の仏教」があるのです。浄土系の仏教では、蜘蛛の糸を自分のからだに巻き付けてしまうのです。そして、蜘蛛の糸をちょんちょんと引っ張り、仏様に「さあ、私は蜘蛛の糸につかまりました。よろしくお願いします」と合図を送ります。そうすると、あとは仏様の方でウインチで巻き上げて下さる。人間は努力して蜘蛛の糸をのぼるわけではありません。
しかも、蜘蛛の糸は無数にあります。何億人いようが仏様は、その人数だけの蜘蛛の糸を用意しておられます」というのです。
それならば、私にも可能でしょうか。
しかしながら、そんなに容易な道ではないようです。蜘蛛の糸に託して、自らの身命すべてをお預けし、“南無阿弥陀仏”とよろしくお願いするのですから、代わりにこの世に在るかぎり、自らに降りかかる生老病死すべての苦を引き受けて平然と過ごさなければならないことにもなりそうです。
ちなみに、私はいつものように、今朝も、きょう一日の無事を願い仏壇に手を合わせてきました。が、楽は良いが、苦は勘弁だ。できれば今より健康でいたい。次には同年輩よりも長生きしたい、長生きして美味しいものを食べたい、お酒も飲みたい―のですから、そもそもあらゆる厄(やく)を排して一日の無事だけを願うことからして自ら蜘蛛の糸を切るようなものです。
現実の私はといえば、人生の肯定感、納得感がもうひとつ得られないまま、いつになって自身の蜘蛛の糸は堅固になりません。が、どうしても、にっちもさっちも行かなくなったときは、煩悩具足のたどりつく先、「すべてお任せします」と手を合わせ(観念)、ウインチをお願いするよりほかないと思えるのです。
(理事長 矢部 薫)