『論語と算盤』より②〜これからの法人運営〜

世間の人はよく「智力を身につけろ」とか「時代の変化をつかまえろ」とか言っています。なるほど、確かにこれは必要なことで、タイミングを計って正しい選択をするには、智力、すなわち学問を修める必要があるわけです。
とはいうものの、どれだけ智力があろうと、それを働かせることができなければ、何の役にも立ちません。
「智力を働かせる」というのは、つまり日々勉強して頭を使うことであって、この「勉強」が伴わないと、ものすごい智も、全く信用できないのです。
そしてその「勉強」というのも、ただ一時期の話ではダメです。死ぬまで「勉強」をしつづけて、やっと十分だと言えるのです。
渋沢栄一著『論語と算盤』(奥野宣之訳)より〜
先日、テレビ番組でいわゆる<ゆとり教育>世代を面白おかしく特徴づけて、ゲストの<詰め込み教育>世代のコメンテーター各氏があるいは怒って見せて、あるいは呆れ果てて見せた番組がありました。しばらくは眺めていたのですが、さすがにいつの時代にもある“今の若い者”的発言に嫌気がさしてチャンネルを変えてしまいました。
後日、こんなことではないだろうと思って、ネットで調べると、ゆとり教育とは、「それまでの知識重視型の教育方針を詰め込み教育であるとして学習時間と内容を減らし、思考力を鍛える学習に重きを置いた経験重視型の教育方針をもって、ゆとりある教育をめざして1980年度から行われてきた教育のことである」とのことです。
私は、団塊の世代の端くれ、正真正銘の詰め込み教育世代として、高校・大学の受験戦争をくぐり抜けてきた世代なので、参考書なるものも、古典的な『赤尾の豆単』による英単語習熟の挫折から、もっぱら教科書一筋・・・。本文はもちろん、欄外の注釈まで覚えたものです。幸い、当時からささやかれていた「テストを過ぎたらすべて忘れる」こともあまりなかったので、私はといえば、例えばクラシック音楽ならショスタコービッチからシェーンベルグジョン・ケージまで名前と主な作品名をひたすら覚えた結果、今でも彼らの音楽の入口として挑戦しやすいところにいます。それが当時の9教科に及ぶのですから、私の生来の浅く広くの気質とあいまって、一生飽きることのない趣味を保障してくれているかのようです。
著作『論語と算盤』上下巻を通じて、渋沢翁は、それまで自らが学んだ江戸末期の漢学による<心を磨く教育>を忘れて、西洋の模倣に明け暮れ、明治から大正期へと複雑多岐に分かれ続けた学問の<詰め込み教育>を批判しています。さらに、まるで私たち戦後の団塊世代が言われ続けてきたような、詰め込み教育の結果、ともすれば「自分さえよければいい」となりがちな風潮を改めて「平凡な常識人であれ」とまで言っているのですから、驚きです。
ところで、ゆとり教育についてさらに調べますと、「それまで知識の暗記に費やしていた時間を一部削って、生徒の自主的な行動に支えられた“考える力”を伸ばそうとする教育で、つまり、詰め込み型教育が知識の習得に重点を置いているのに対して、ゆとり教育は思考力の伸長に重点を置いている」とのことです。私たちの知る範囲でも、この教育の「総合的な学習の時間(総合学習)」でのグループ学習の風景や、「調べ学習」の成果として教室に所狭しと張り出された図表の数々は目にしたことがあると思います。
しかしながら、この教育方針は、OECD加盟国による国際学力テストの結果、日本の生徒の学力低下が指摘されるに至って、2011年からは脱ゆとり教育、すなわち時代に見合った基礎的知識は必要だとした一部詰め込み教育の見直しでもあるという<生きる力をはぐくむ教育>がスタートしたとのことです。したがって、今後5年、10年後には第3の新たな気質を持った教育世代が社会に登場してくることになるのでしょうか。
冒頭の引用文ですが、渋沢翁は、智力は「確かに必要なこと」「すなわち学問を修める必要がある」として、さらに「日々勉強して頭を使」わないと「智力を働かせる」ことはできない、としています。つまり、単に知識や資格をため込んで良しとするのではなく、あらゆる現代的なツールにより広く情報を得ることや経験・体験を含めた勉強によって、タイミングを得て、その知識を智力(智恵)として社会の中で活かす(正しい選択をする)ことが必要だ、と言っているのだと思います。
そして、それも「死ぬまで勉強をしつづけ(なければ)ダメです」というのですから、この一文は、今まさに、改正後の法人運営を担う私たちにとって、世代の特性に関わらず叱咤激励の極みとでも言えるのではないでしょうか。
(理事長 矢部 薫)