慈と悲〜援助の基本〜

「慈悲」ということばの意味はふたつあります。
「慈」ということばの意味は「がんばれ」という励ましです。
もうひとつは「悲」ということば。「悲」(カルナー)ということは、何も言わないということなのです。そばにいてその人の手を握って、その人の怒りや苦しみが自分の方に伝わってくるのを、一所懸命受けとめようとする。その無言の行為。それは「なぐさめ」ということです。五木寛之著『天命』(幻冬舎文庫)より抜粋〜
人生を支える福祉のステージとして、養育期を支える児童福祉、壮年期を支える障がい者福祉、高齢期を支える高齢者福祉が知られるところです。これに高齢障がい者や、あらゆる世代を対象とした生活困窮者等を加えると、単純に人生をステージで切り分けた考え方が難しくなっている現状にあります。
親愛会では、法人認可以来、ほぼ知的障がい者福祉を中心に事業展開してきましたので、ノーマライゼイションの思潮の下、各事業ご利用の皆様方に、就労・授産文化活動等を通して「がんばれ」を言い続けてきたように思います。
そして、近年は、インクルージョンの考え方の普及とともに、それまでの本人の努力による「障がいを克服する“完全自立”」から、今ある本人の存在が最大限尊重された「(福祉に)支えられた“支援付き自立”」、そして、自己選択の保障された「心(意思決定)の“自律”」へと経過をたどってきたように思います。その意味では、国民のだれもが、必要とされるときにはいつでもどこでも可能なかぎり利用することのできる福祉サービスへと、大きく様変わりしたことになります。
私たちは、このような福祉の変遷の中にあって、かつて指導という名のもとに、何をおいても「がんばれ!」と励ましてきました。が、ややもすれば無理強いしてきたような側面もあり、反省の至りです。日々、障がい者に寄り添う福祉現場では、今でも少し控えめに「がんばってください」と励ましのエールを送り続けているように思います。それはそれで利用者様に対する大切な壮年期の支援スキルなのです。
ところが、今日の障害者支援施設の実態として、平均年齢60歳代、最高年齢者80歳代、そして病弱の高齢障がい者を多く抱えた施設の現状として、車いす・おむつ対応、そして食事・入浴等で常に最大限の見守り介助を求められる利用者様が多くなって、これまでの「がんばれ」ばかりではそぐわない場面も多くなってきています。高齢病弱化されてゆく皆様にどうお声かけしたらよいのでしょうか。
私の日々の仕事の中で、センター・南の里に出向くとき、親愛会入所施設開設当初からご利用の皆様方とお会いすることがあります。40年近くが過ぎて今なお元気でいらっしゃる方もあれば、車いすの上でおだやかに過ごされている方もいらっしゃいます。
そのような皆様方に、時に昔懐かしい思い出話で共感し合うのも楽しいのですが、高齢病弱の方には、はげましの言葉も、なぐさめの言葉も見当たらないことがあります。上記引用は、<そういう時はそっと手を握ってなにも言わないでいる(心を通わせる)こともなぐさめとして大切な行為なのだ>と教えてくれます。
文庫本『天命』は、五木氏自身のこと、戦後、朝鮮からの引き揚げ経験に裏打ちされた“体験の書”です。新年早々の七福神めぐりの帰り途、友だちの事務所に立ち寄った際に貸していただいたこの本が、今年最初の読書となりました。
(理事長 矢部 薫)