雲と自由を追いかけて〜府中界隈のこと〜

昨年の話になりますが、12月11日のこと、早めに家を出て下りた駅は、JR武蔵野線北府中駅。駅西方面は東芝府中工場への半ば専用通路となっていて休日はがらんとして通行人はいません。私は駅東方面の陸橋をわたって、府中刑務所の塀沿いの道を東へと歩いたのでした。府中刑務所へは、一昨年、県地域生活定着支援事業の関係で視察をさせていただいたことがありましたので、塀越しにおおよその建物配置を思い出しながらの道行きとなりました。
ご存知の方は少なくなったでしょうか、いわゆる3億円強奪事件、その直後から“完全犯罪事件”として注目を浴び、その後、映画・テレビドラマで取り上げられたことで有名になった事件発生の場所として知られた学園通りは、この正門の通りとは反対側にあります。私は、連れに事件発生後1年以上経過している中でも、当時から遅々として進まぬ捜査状況のテレビニュースに、たびたび現場が映し出されたことなどを説明しながら、歩きました。
国分寺街道に出たところで左折して少し行くと、右手の正門から、けやき並木の奥に見えてきたのは大学の本館ですが、どうしたことかパトカーがとまっているのです。私は、とっさに在学当時もテレビドラマ撮影場所として時々使われていたことを思い出しながら、近づいていくと、大学の表札は外されていつしか〇〇警察署ではありませんか。車中にはっきりした人物は特定できませんでしたが、明らかに刑事ドラマの撮影中なのでした。
それを尻目に、構内を左折して歩むと、正面は学生食堂。その手前の左側は運動場で、入学したばかりの春に行われた体育の授業で、おそらく体力測定のための長距離走だったと思います、終盤までトラック1周分をリードしていた元高校陸上部だったとういう同級生が脱落した結果、私がトップに躍り出て、そのまま気持ちよくゴールしたのを思い出しました。
さて、正面の食堂ですが、忘れもしません、その年の秋のこと。いつものように昼12時に学生食堂に行くと、テレビ前は人だかり・・・。中にいた友だちの言うには「三島由紀夫が何か言っている!」と咳込んでいました。そうするうちに、「三島が自決したらしいぞ!」との声があがり、その後のテレビは、くり返し、自衛隊市ヶ谷駐屯地バルコニーでの三島氏の演説(檄)を流していたのを今でも鮮やかに覚えています。私は、『仮面の告白』『金閣寺』を読んだ程度でしたので、それまで彼の政治的な言説を知ることもなく、ほとんど理解できなかったのですが、テレビの中とはいえ歴史的な事実を目のあたりにして、むしろそのほうがショックでした。
その食堂前から、ワンダーフォーゲルクラブの部室のあったあたりを過ぎて、少し行くと石碑「雲と自由の住むところ駒場寮跡)が見えてきました。前回、一人で立寄った折に発見して、ここだけはもう一度見たいと思っていたところです。碑文は、今でも酔いに任せて歌いだすことのある『駒場小唄』の繰返し、いわゆるサビの部分で、少し大げさに言えば私にとって“心の聖地”なのです。
さらに歩を進めて、左手に農場を眺めながら構内を出て元の通りに戻り、なおも東へと行くと、道はいつしか「美術館通り」となっていて、目的地はあと少し・・・でした。
『生誕130年記念 藤田嗣治展―東と西を結ぶ絵画―』(府中市美術館)は、最終日とはいえ、やはり、藤田クラスでも、少し都心を離れただけの理由で空(す)いていて、その分見る側にとってはとても快適な美術鑑賞となった次第です。
帰りは美術館前からバスに乗って、とうの昔にすっかり変わったのだという武蔵小金井駅に着いて、あの下宿時代の“開かずの踏切”を渡ることもなく北口に出て、そしてバスを乗り継いで帰ってきました。
私は、「以上、“最低限の授業を受け、縦走を主の山登りと、流行り病のような学生運動に費やした日々、私はひたすら雲とまた自由を求めた!”そして、一人休学届を出して学校を去った。」とつぶやいて、家路についたことでした。
今、それに少しつけ加えるとすれば、最近読んだ山折哲雄著『「ひとり」の哲学』を借りて、
「ひとりで立つことからはじめるほかない。そして、ひとりで歩く、ひとりで坐る、ひとりで考える。ひとりの哲学を発動させなければなるまい・・・(略)・・・。」
やがて、
「「ひとり」の世界が立ち上る。「ひとり」で覚悟する地平が拓けてくるだろう」
ということになると思います。
その後の私の人生は、はからずも山折氏のいう道元の「ひとり」、そして親鸞の「ひとり」を追って・・・ということになりましたが、今回は省略します。
(註)私の敬愛する画家、藤田嗣治については、昨年の生誕130年関連の『ランス美術館展』が、現在も東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館で行われています。
(理事長 矢部 薫)