春の弓〜前橋汀子コンサート〜

一昨年の春に川越駅西口に複合拠点施設「ウェスタ川越」がオープンし、その大ホールの音響は抜群で、私は初めて訪れた演奏会で、その出だしの音に、思わず「すごい!」と声を上げたほどです。低音域まで硬くしっかりした音が響いてきて、音楽好きを自認する私としては満足のいく“音”なのでした。
2月初旬の土曜日の午後、そのホールに前橋汀子さんがやってくるというので出かけてみると、中段席の袖あたりに空席が少し目立つ程度に埋まっていて、そう、若干の余裕をもった“当日でも入れる”コンサート会場に、少しばかり安堵したものでした。
前橋さんは、名実ともに日本を代表する世界のヴァイオリニストです。彼女の恩師Jシゲティといえばかなり個性の強い演奏法で知られ、作家太宰治は1937年の作品の中で、“孤高狷介(ここうけんかい)の天才”つまり、「(孤高で強情な)ヴァイオリンの名手が昨秋に日比谷公会堂で演奏会を開いたが不人気で、これに憤った40歳の天才は「日本人の耳は驢馬の耳だ」と新聞に一文を寄せた」というエピソードを紹介しています。
私は、40年以上も前のこと、その「ギシギシと弦を軋ませる」演奏法で知られるシゲティの名盤『JSバッハ無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ』を、同じ下宿の友人に勧められて購入し、その帰りに金沢の竪町通りを入って左側にあった、喫茶店『郭公(かっこう)』でそのレコードをかけていただいたことがありました。
その友人は、大学のオーケストラにも籍を置いていて、時に練習会の帰りに私と待ち合わせて入った、馴染みのホルモン焼き店で、酔うほどに『シャコンヌ』を弾いたのでした。また、ヴァイオリン製作家のお宅に彼とおじゃましては、定評のあるHシェリングとのボウイング(運弓法)比較論に花を咲かせたり、シゲティをめぐっては数々の思い出があります。
私にとって前橋さんのコンサートというと、その“シゲティの生音”を捜しての演奏会鑑賞ですから、動機が不純、大御所に対して初めから失礼この上ない話です。今度で4度目、5度目の“音”に出会いたくて、性懲りもなくこの『名曲の調べ』コンサートに出かけた次第です。
前半のメインは、名曲、メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』で、私なりに、緊張感あふれる良い演奏だと思いました。
後半のメインで、かつコンサート終曲は『ツィゴイネルワイゼン』で、これも定番中の定番・・・。私は、引続きシゲティの幻影を追って聞こうと身構えたところ、初音からして一音一音が重く長く響いてきて、時折“気合(声)”も入った、集中度の高い演奏が聞けたように思いました。
メロディーの間合いを測るかのように、弓は、まるで市川雷蔵演じる映画や片岡孝夫演じるテレビでおなじみの『眠狂四郎』の刀裁きに似て、「空(くう)を舞い、緊張と自在と・・・」などと、私はひとり悦に入り、一句
ヴィオロンの 剣のごとき 春の弓(井蛙)
第2楽章は、弱音器のついた哀愁に満ちた“ロマ(ジプシー)人の歌”で・・・、遠く中国の胡弓、モンゴルの馬頭琴を思わせる線の長い響きがシルクロードを彷彿とさせ、
春風や ロマの音曲 馬に乗る
第3楽章は、急速なテンポの中で右手・左手のピチカートが続く超絶技巧・・・。魔術的なテクニックで一世を風靡したという作曲者サラサーテもかくありなん・・・と思わせる妙技を、私は堪能しました。
かくして、前橋汀子という名演奏家(73歳)に惜しみない拍手を送り続けたことでした。
(理事長 矢部 薫)