俳句のある人生〜髙沢初代理事長のこと〜

事務局が親愛会の書庫を整理していたところ、初代理事長であった髙沢幸治先生の小さな手帳『俳句手帖』が出てきました。
髙沢さん(以降、「さん」で表記させていただきます)の俳句といえば、平成8年の秋にお亡くなりになってから「父の看病をしている時病院の荷物の中に小さな手帳がありました」と小句集『柑子(つぶやき・句集)』の編集にあたられたご息女の“あとがき”にもあるように、俳句を嗜んでおられたことは、この時以来分かっておりました。還暦後の23年間でしたので、84歳で亡くなられた髙沢さん晩年の趣味人としての側面を偲ばせていただきました。
その中のいくつかを、私なりの解釈を添えて紹介します。
初春や ふた取替えて ひのき風呂
 年初めの一番風呂に、新調したての風呂の蓋を取ると檜の香りが元日のきりりと引き締まった空気の中に漂って、体を流すたびに湯気と入り混じっている。やがて、浴槽に身を沈めれば、顔を一拭いして、今年も頑張ろうと新たな誓いをしている自分に気がつく。(※私の一番好きな俳句です)
古里の 桜ふぶきに 逝く佛
 故郷、高田の城址公園は桜の名所、その見事な桜吹雪の舞い散る中の告別式。佛は、堂々たる人生を謳歌したに違いない。送る側も死者のいさぎよさに感動すら覚えたのだ。(後述、故市川氏への送別句)
老妻と 寝もの語りや 除夜の鐘
 老妻とは長い間の連合いの仲。今さら語ることもないが、気がつけば今夜は大晦日。あんなこともあった、こんなこともあったと、ついぽつりぽつりと口をつく。今年もお世話になりました。
ありがとう なしとげて鮭の 里帰り(辞世句)
 鮭は、川を下って、北太平洋を周回して故郷の川を遡って次世代につなぐ。私の人生も多くのご縁をいただいて世間という大海を十分に泳ぎきることができました。今は穏やかな気持ちで、皆様に感謝でいっぱいです。

今回見つかった手帳は、おそらく、かつて髙沢さんが自宅から親愛会事務局に運んだ育成会資料の中に紛れ込んでいたのでしょうか、『俳句手帖』と表書きがあって季語集がとじ込んでありましたので、市販の俳句専用の手帖を使っていたようです。
ところで、前述の句集『柑子』の“あとがき”にはさらに、「父の俳号は柑子・俗名幸治にちなみ・野山にはえる藪柑子(やぶこうじ)からとってつけられたそうです」のとおり、私も髙沢さんが老後の、俳人としての自らを柑子と号したとしか理解していなかったのですが、
昭和15年の記述に、(※故人28歳前後と思われます)
向島百花園ニテ10・15 此の日 市川雪泉氏より柑子とい云ふ名□付けて貰ふ」
と記載されてありました。
名付け親の市川氏は同郷年長者、高田市生まれの瞽女(ごぜ)研究家で、郄沢さんにとっては俳句の師匠、囲碁の仇敵だったそうで、同年9月10月の記述には雪泉と明記した句もあり、あるいは添削指導を受けたと思われる記述もあります。また、同じ季語を使った句も並んであって、何度か一緒に句作の旅を重ね集中して学んだ跡がうかがえます。
翌16年には
「旅に出ル度 幾つかの句を書いたはずも見うしない記入出来ず残念なり」
とあります。また、小用の“車中(電車)”との表記も増えて、世の中が戦争へと歩を進めていった時代の雰囲気が伝わってきます。
さらに、17年、18年と家族の不幸を乗り越えて、同年11月でいったん途絶えています。
そのうちの1句、
利根川原 穂すゝきまばら 冬近し
 利根川の広大な川原のススキの穂がまばらに立っていて、冬が近いと教えてくれている。作者の心中もさぞかし空漠として冬近し、時代の死への予感すら感じられる。
次は22年9月の2句のうちの1句、
うねりては くだける波や 海の秋
 戦後の混乱か、復興への支離滅裂か、敗戦後の人々の、そして自らの思いがうねり、そして砕け、翻弄される。それでも海は懐広く、豊饒の秋を湛えているのだ。
これで『手帖』は終わっています。
この時から句集『柑子』までの30年弱の・・・この間の『俳句手帖』は見つかっておりませんが、おそらく続けられていたことでしょう。ただし、髙沢さんを知る人は異口同音に、「商売(事業)に、育成会活動に東奔西走の日々、俳句どころでは無かった!」と懐述することと思われます。
『俳句手帖』にはまだまだ多くの優れた句がありますが、今回は経緯・経過の紹介にとどめさせていただきました。これを機に、親愛会理事長としての人間、髙沢幸治氏の理解がなお一層深められることと信じます。
なお、市川氏に関すること他、ご息女には多くの情報をいただきました。ここに厚くお礼を申し上げます。
(理事長 矢部 薫)