福祉は人のためならず~法澤さんという自称”燈台守”~

6月も半ばを過ぎた頃に、謹呈本『福祉は人のためならず・Ⅱ』が送られてきました。“(その)Ⅰ”は、今から7年前の2012年春にさかのぼります。

本の著者、法澤奉典氏は、私が初めてお会いしたのが1989年(平成元年)11月12日、この日から2週間にわたって行われた『フィンランドセミナーと北欧3国社会福祉視察研修』(山下勝弘団長他20名)でのことでした。氏が若き日に県内の施設で仕事をしておられたこと、また県内に在住ということもあったのでしょうか、旅先のホテルでは、私とほぼ1日おきにツインルームでご一緒させていただいたのが始まりでした。氏は、14日に行われたセミナーで両国合わせて50名の参加者を前に、日本の知的障害者入所施設の現状を堂々と説明されていましたので、このことが今でも強く印象に残っています。もちろん、氏も私も当時、厚生省専門官であった中澤健先生の“ノーマライゼイションの現実を検証する”という大きな目的のもと、参加した私たち日本の福祉現場の職員にとっても、どう感じ、どう思うのかを併せて検証されているような研修でした。

このことについて、氏は自法人の理事長コラム『三代目燈台守』(2019.3.16“平成の愛光を振り返る(2)”)で「収容・雑居のわが国に比べて、北欧3国の障害者福祉は、まるで夢を見ているような印象を受けて帰国したものだった」(“平成最初の年の思い出”)と記述しています。

ちなみに、この視察研修で私たちが目の当たりにした「入所施設解体(グループホーム化)」の課題は、日本ではやがて浅野史郎氏の『施設解体論』につながっていくことになったのだと思います。

それから時を経て、2009年秋、法澤氏から私のところに「川越にご縁がある利用者がいて、いつか機会を見て川越市内の施設に戻したい」との電話がありました。おりから私たちの施設では、欠員(空床)が出たところなので、その年のうちに千葉県内の社会福祉法人愛光におじゃまし、久しぶりに法澤氏と再会を喜び、今回対象の利用者と面会(ヒアリング)を済ませました。

そして、その時の利用者、Tさんは翌年1月にいったん南の里に入居し、次の年の6月にはセンターに移動しています。

法澤氏との、そんなお付き合いがありました。

ところで、当該の本(Ⅱ)の巻頭には“社会福祉法人愛光 退職記念”と銘打ってあります。

改めて、“(その)Ⅰ”を手に取ってめくると、

「(1960年代の)そんな少年少女たちは、全共闘運動に走り、かと思うと、もう若くはないからとあっさり長髪に決別し、次は家畜ならぬ“社畜”と化して猛烈に働いてきたわけである。良くも悪くも会社人間、組織人間そのものだった。

ところが一方で、高度成長経済の申し子「無責任男」(註:植木等のサラリーマン人生を風刺した歌・映画「無責任シリーズ」が大ヒットした。)なんてとんでもない。そんな人間になりたくないと、会社嫌い・組織嫌い、穏やかに言えば組織を「敬遠」した者のなかに少なからず「福祉人間」がいた。それは戦後ずっと、経済が成長し、ひっそりと流れ続けていた“傍流”のような一団だ。激しく流れる本流に対して、それに呑み込まれないようにと、何がしかの政策的意図も働いて、細々と、ゆっくりとした流れの水路(措置制度)が確保されてきた。お金にも権力にも縁の薄い者たちが、その流れに身を任せてきた」(2008.3“春一番”より抜粋)とあります。

そんな時代もつかの間のこと、2003年4月からの支援費制度、2006年4月からの自立支援法により措置から契約の時代へ、そして一昨年4月からの社会福祉法の改正により運営から経営へと大きく軸足を変えて、現場では、やれ加算だとか、やれ減算だとかで神経をすり減らす毎日が続き、私もいつしか国の思惑どおりにガバナンスを口走ることが多くなりました。

こうした中、私の知る範囲でも、これまで障がい者福祉を支えてきた、かつてバリバリの“全共闘世代”でもあった先輩諸氏がぽつりぽつりと現役を退いていきます。その一方で、政府には労働力不足を背景に、将来的に75歳まで定年を引き上げるシナリオもあるという報道がささやかれ始めています。私たちの世代にとって引き際の難しい時代が始まりました。

(理事長 矢部 薫)