父ちゃん・母ちゃんのいた風景~画家・原田泰治の世界~

先月下旬のある日のこと、出がけの雨模様の空も、上諏訪駅に着くころには今さら梅雨明け宣言を聞く必要もないくらいに、真夏の青空が広がっていました。
目的地の諏訪市原田泰治美術館は、諏訪湖畔にあって、今から40年近く前に朝日新聞日曜版の表紙を飾った詩情豊かな水彩画でおなじみの原田泰治さん、その人の作品を展示した個人美術館です。
今回の美術館行のきっかけは、7月12日早朝に放送されたNHKラジオ深夜便『明日へのことば』「原田泰治(画家)・にっぽんのふるさとを描く」で、この日、私は枕元のラジオのイヤホーンで、タイミングよく初めから終わりまで聞くことができました。
番組は、インタビューに応じて、原田さん(79歳)が自身の生い立ちから今現在の活動までをていねいに答える形で進められ、聴取者を思わず原田ワールドに引き込んでしまうような心温まるものでした。
今でも記憶に残っているのは、
・1歳で小児まひにかかり両足が不自由になった。
・その不自由な足を、毎日、諏訪市内の温泉の湯で温めてさすってくれた生母を2歳で亡くした。
・その後、父親(父ちゃん)は自分のことを考えてくれたのか、足の悪い母親(母ちゃん)と再婚し、まもなく戦況が厳しさを増したため、一家は飯田市郊外の伊賀良村に疎開した。(※扇状地扇頂部での開拓生活)
・4、5歳のころには、近所の友だちが、見晴らしの良い高台まで、動けない自分を背負って連れて行ってくれて(置いておかれて)、その友だちの戻ってくるまで、自分一人で遠くを眺め、足元の草花や近くの石垣の一つひとつを眺めたりして遊んでいた。(「鳥のような俯瞰的な目」「虫のような目」)
・中学生になって、諏訪市内に戻り、転校するも、空を大きく入れた風景画は、先生から「要領がいい」などと評され、理解されなかった。(褒められず、自信を失う)
定時制高校に入って、昼間部の教室の廊下に貼ってあった愛鳥週間の全国ポスターコンクールに応募して“佳作”、次に林野庁の山火事防止ポスターコンクールに応募し、全国4千点以上もの作品の中から“2位受賞”。これがきっかけで美術の道に進もうと決心した。
というものでした。
その後の武蔵野美大入学以降は、画家としての原田さんの活躍については知る人ぞ知る話ですので、省略します。
さて、この美術館の理念は、
1、ナイーブアート(素朴画)の発信拠点とする
2、人に優しい美術館をめざそう(バリアフリー
です。私は、聞きなれない<ナイーブアート>にアンリ・ルソーの絵画を思い起こし、近年、障がい者絵画でもたびたび使われるアウトサイダー・アートアール・ブリュットにも近い用語かと考えを巡らせました。
実際に、会場内に展示されている企画展『花を見る旅』の作品(文)を一つひとつ鑑賞して歩くにつれ、私の記憶をたどれば昭和20年代、30年代の生家近くの風景に似て懐かしく、<素朴画>にかける原田さんの思いにふれたことでした。
帰り際に、玄関近くのコーナーで、繰り返し放映されているビデオ映像を眺めていると、名誉館長である親友の歌手さだまさしさんが映って「<細かいところをコツコツ描いていって、最後に大きく仕上げる>その手法は私の歌作りと同じ」と語り、加えて3歳年上だというおさな馴染みがにこやかに「けっこうガキ大将でした(存在が大きかった)」と本人を前に言っていたのが印象に残りました。
そういえば、玄関正面奥に原田さんの愛車だという赤い“まぼろしの名車トヨタスポーツ800”がピカピカに磨かれてあって、これも画家の人となりの理解に一役買っているのでした。
(理事長 矢部 薫)