少子高齢化社会の社会保障~検討会中間報告を見る~

昨年9月18日に、内閣総理大臣決済で、その趣旨を「少子高齢化と同時にライフスタイルが多様となる中で、誰もが安心できる社会保障制度に関わる検討を行うため」とした全世代型社会保障検討会議がスタートしました。
本検討会議は、内閣総理大臣を議長に、内閣官房全世代型社会保障検討室が昨年9月20日を第1回の開催日として、第2回、第3回とそれぞれ有識者を出席者に加えながら進めてきた同検討会議の第5回会議が先月19日に行われ、今回、その中間報告が示されました。
年金・労働については素案、医療・予防介護については論点整理・方向性に過ぎない記述も多い報告ですが、いわゆる団塊の世代が、75歳以上になり始める2022年度の初めまでに実施できるよう、全ての世代が公平に支え合う「全世代型社会保障」への改革を進めることは、政府・与党の一貫した方針であるとしています。
各検討会議を受けて、省庁分野別審議会の中で、さらにその部会ごとに一定の方向性(具体案)が示されています。年末に向かってやや煮詰まったかたちで、身近な年金、医療費、そして副業などについて、テレビ・新聞等で報道されていますので、その論点及び課題等も含めご存じの方も多いかと思います。
私たちには、今後の日本の少子高齢化社会における社会保障(福祉)のあり方を左右する大きな改正となりますので、興味深いところです。ここでは、報告書(第2章 各分野の具体的な方向性)により、数字を中心に見ていきたいと思います。
1 年金
(1)需給開始時期の選択肢の拡大
60歳から70歳まで自分で選択可能となっている年金受給開始時期について、その上限を75歳に引き上げる。
(2)厚生年金(被用者保険)の適用範囲の拡大
2022年10月に100人超規模の企業までは適用することを基本とし、2024年10月に50人超規模の企業まで適用する。
(3)在職老齢年金制度の見直し等
60~64歳に支給される特別支給の老齢厚生年金を対象とした在職老齢年金(低在老)については、現行の28万円から65歳以上の在職老齢年金制度(高在老)と同じ47万円の基準に合わせる。あわせて在職定時改定を導入する。
(4)ねんきん定期便等の見直し
老後の選択を支援する。
(5)私的年金の見直し
私的年金の加入可能要件を見直し、加入可能年齢を引き上げるともに、受 給開始時期を柔軟化する。
2 労働
(1)70歳までの就業機会確保
(第一段階の法制)以下の選択肢を明示した上で、事業主としていずれかの措置を制度化する努力規定を設ける。
 ①雇用による措置
 (a)定年廃止
 (b)70歳までの定年延長
 (c)定年後又は65歳までの継続雇用終了後も70歳まで引き続いて雇用
(又は関係事業主(子会社・関連会社当)が雇用を確保(※(注)省略))
 (d)定年後又は65歳までの継続雇用終了後、(関係の事業主以外の)再就職の実現(※(注)省略)
 ②雇用以外の措置
 (e)定年後又は65歳までの継続雇用終了後に創業(フリーランス・起業)する者との間で、70歳までの継続に業務委託契約を締結
 (f)定年後又は65歳までの継続雇用終了後に以下のいずれかの事業による活動に70歳まで継続的に従事する。
   ・事業主が自ら実施する事業
   ・事業主が委託、助成、出資等するNPO等の団体が行う事
(第二段階の法制)第一段階の進捗を踏まえて、企業名公表による担保(いわゆる義務化)のための法改正を検討する。
(2)中途採用・経験者採用の促進
大企業(301人以上規模)における「正規雇用労働者の中途採用・経験者採用比率」を公表する。
(3)兼業・副業の拡大
兼業・副業に係る労働法制における労働時間規制及び割増賃金の取扱いに ついて、最終報告に向けて検討していく。
(4)フリーランスなど、雇用によらない働き方の保護の在り方
関係省庁と連動し、一元的に実態を把握・整理した上で、最終報告に向けて検討していく。
3 医療
(1)医療提供体制の改革
地域医療構想の推進、地域間・診療科間の更なる医師偏在対策、卒前・卒後の一貫した医師養成課程の整備、地域における看護職員をはじめとする医療関係人材の確保・育成、看護師・歯科衛生士等の復職支援・定着の推進、医師・歯科医師等の働き方改革、医療職種の役割分担の見直しにより、地域差を伴う「高齢化による需要拡大」と「支え手減少」の進展などの環境変化に対応し、質の向上と効率改善を図り、地域で必要な医療を確保する。
(2)大きなリスクをしっかり支えられる公的保険制度の在り方
後期高齢者の自己負担割合の在り方
後期高齢者(75歳以上。現役並み所得者は除く)であっても一定所得以上の方については、その医療費の窓口負担割合を2割とし、それ以外の方については1割とする。
・その際、高齢者の疾病、生活状況等の実態を踏まえて、具体的な施行時期、2割負担の具体的な所得基準とともに、長期にわたり頻繁に受診が必要な患者の高齢者の生活等に与える影響を見極め適切な配慮について、検討を行う。
②大病院への患者集中を防ぎかかりつけ医機能の強化を図るための定額負担の拡大
・他の医療機関からの文書による紹介がない患者が大病院を外来受診した場 合に初診時5,000円・再診時2,500円以上(医科の場合)の定額負担を求める制度について、これらの負担額を踏まえてより機能分化の実効性が上がるよう、患者の負担額を増額し、増額分について公的医療保険の負担を軽減するよう改めるとともに、大病院・中小病院・診療所の外来機能の明確化を行いつつ、それを踏まえ対象病院を病床数200床以上の一般病院に拡大する。
・定額負担を徴収しない場合(緊急その他やむを得ない事情がある場合、地域に他に当該診療科を標榜しうる保険医療機関がなお場合など)の要件の見直しを行う。
4 予防・介護
(1)保険者努力支援制度の抜本強化
(2)介護インセンティブ交付金の抜本強化
(3)エビデンスに基づく政策の促進
(4)維持可能性の高い介護提供体制の構築

それぞれについて、「今年夏の最終報告に向けて検討を進める」としていますので、今後開催される検討会の動向を注視していきたいと思います。
(理事長 矢部 薫)

藤田会長の悲願~人権の碑除幕式~

先月20日午後のこと、法人事務局入口にある私宛ての決済文書トレーに、ゆうメール(冊子小包)が乗っていました。表の郵便局のシールに草津栗生(局)とありましたので急いで裏を見ると、草津町の藤田さんのお名前が書かれてありました。
私は、思わず「えーっ!本当に!」などの声を上げてしまいましたが、居合わせた職員たちはパソコンから少し顔を上げて怪げんの様子、・・・。私は、喜びを隠せず、かたわらの職員に開封を手伝ってもらい、送られてきた句集『春炬燵』を手に経緯を語り、次には隣室のみどりのまち職員にも説明しました。
職員のほとんどは長くても10年、20年選手。そもそも今回のご縁となった川越親愛学園(現川越親愛センター)二代施設長 丸山豊先生自身までは知りません。今夏、新聞テレビで「心からお詫びする」とした首相談話を通じて、<ハンセン病家族への賠償が確定となった>というニュースは耳にしたことがあるといった風でした。
私は、そのまま自室に戻って「謹呈」の短冊に添えられた挨拶文「図書の寄贈について」を読み返しました。
本句集の作者 藤田三四郎氏は、栗生楽泉園(くりうらくせんえん)入所者自治会長で、前の週の15日夕方のNHKテレビニュース『ハンセン病療養所「人権の碑」除幕式』の放映中、
「療養所に入って、75年目にあたることし、国が責任を認める法律が成立したこの日に除幕式を行うことができ、本当にうれしく、ことばになりません。この石碑を通してハンセン病への理解を広げていきたい」と、インタビューに答えられていました。
私は、テレビの前に立ったまま・・・、(あっ、この人だ。まちがいない!)。次に、「―そうですか、93歳になられて、お元気そうで何よりです!」と、画面の車いすに乗られたお姿に語りかけてしまいました。
この人こそ、今から5年前の本ブログ『ハンセン病の悲劇~丸山先生のご縁~』(2014-08-01)に掲載した“K様(仮名)”、その人でした。私は、そのブログに記述した出来事を昨日のように回想し、(矢も楯もたまらずに)
「もしもし、藤田さんのお宅ですか」と、出られた女性に電話の趣旨を手短に説明しました。すると、
「私は、ここの職員です。今、先生に変わります」と、いったんは藤田さんに取り次いでいただいたので、私は、
「この度は、人権の碑建立おめでとうございます。25年以上も前に丸山先生とお伺いしたその節は、―」と続けるも、「・・・・・」。
すると先ほどの女性の声で、「先生はお耳が遠くていらっしゃって、電話はご無理のようです」とのこと。私は、「「先日、懐かしさのあまり、ファックスでお手紙をお送りさせていただいた者です。ご丁寧に句集までお贈りいただきまして、有難うございました」と、お伝えいただければ有難いです。私がお話ししたいことは、一昨日のお手紙にしたためましたのでご了解されているかと思います」と、伝言をお願いしてお礼の電話とさせていただきました。
句集から代表句“春炬燵(はるごたつ)”を紹介します。
●日盲連文芸大会 文部科学大臣賞2017
定位置にルーペとペンと春炬燵(藤田峰石=俳号)
句集の序文で高原俳句会主宰の三浦晴子氏が絶賛されています。「病気による偏見や差別の苦しみの時代を乗り越えてこられた先に、辿り着かれた今の平穏な日常の幸せが、この一句に表出されている。ほのぼのとした温かさに包まれた秀句である」と。
私には、「目の不自由な人の「定位置」の意味合いは、心中察するに余りあります。その定位置に、しりとり遊びのような軽やかさで(ローマ字表記)「ルーペ」と「ペン」を代表させてもってきた。そして、「春」とは名ばかり、引続き「炬燵」から抜け出られない毎日にあって、屋根を伝う雪溶け水の音だけが日に日に大きくなっている。今年も春はやってきたのだ」と、藤田さんの穏やかな心情とともに、早春の実景までも大きく伝わってきます。
さて、季節はこの俳句とは裏腹に冬到来の12月、草津町内とはいえ道中は山の中、標高千メートル以上、年明けには積雪数メートルにも達する小高い山の上の一集落(療養所)からは、このところの寒気で積雪の便りも聞こえてきそうです。
藤田さんには、石碑建立という大事業を終えられた後も、くれぐれもご自愛の上、詩・俳句・川柳・随筆等々の文筆活動に、末永くご活躍されますよう心よりお祈り申し上げます。
(理事長 矢部 薫)

心臓が量産品に変わる日~相応の責任と覚悟を~

先月2日の日本経済新聞朝刊に『心臓が量産品に変わる日』の見出しで、衝撃的な記事が掲載されていました。
特集『Disruption 断絶の先に 第7部 医ノベーション⑴』で、医療の最先端技術開発に余念のない、ある研究開発拠点を取材したものです。
まず、【細胞を敷き詰められる3Dプリンター】<大脳皮質の一部をつくり、脳の治療に役立てる計画だ>との説明書きを添えた大型の写真には、私たちの見慣れたパソコン用事務機器からも十分類推することができ、ましてフィギア作りに携わった人なら一目で理解できそうな“小型ジェットプリンター”が写っていました。ただし、材料はインクあるいは樹脂ではなく“神経細胞を含む液体”だというのです。
そして、現在では、「それを丁寧に敷き詰めると、1~2時間で最大20層ほど積み重なり、約1センチ角のサイコロ形をした塊になる。(中略)この塊を様々な形に変えたり、異なる細胞を混ぜ合わせたりできる」段階にある、というのです。
記事は、さらに、その【イメージ】として、<3Dプリンターで心臓を形づくる(細胞を積み上げる)→細胞同士がくっつく→立体に組みあがる>図を示し、実際にシャーレからピンセットでつまみ上げた【細胞の3次元積層体】の写真を紹介していました。
材料の“細胞”とは、あらゆる細胞に育つiPS細胞のことで、ご承知のとおり、京都大学山中伸弥教授がヒトの細胞での作製に成功し、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞したことで知られるところです。
さらに、記事では、【傷んだ体は交換する】具体例として、臓器生産機関が作製し、遠くない未来にスペアとして交換可能な臓器、脳・目・肺・心臓・肝臓・膵臓・腎臓・小腸・大腸を図で示しています。
ところで、昨年ノーベル文学賞を受賞した日系イギリス人の小説家カズオ・イシグロ氏の作品『私を離さないで』(2005年)は、近未来、臓器提供するために造られたクローン人間の話です。私は、ヘールシャムという施設で幼少期を過ごし、長じてコテージでの生活に移行し、やがて臓器提供を繰り返すうちに衰弱し死を迎えるという過酷な運命の中でも、一人ひとりが悩みながらも現実を受け入れ、そして、友情も恋愛も経験してゆくうちに自らの運命を受け入れていくというストーリーを思い起こしました。
後半の記事は、「1万人の患者が移植を待つ」国内の現状にふれ、そして「どこまで「自分」でいられるか」との哲学的な課題に及び、東京大学の中内啓光特任教授の「体の大部分が他人から提供された臓器や機械に取り換えられても、脳が置き換えられないかぎり『自己』の意識は存在する」と、現実的な認識論を紹介しています。
最後に、iPS細胞の生みの親である山中教授の「大きな倫理的課題を生み出したことに気づき茫然としたことを覚えている。(中略)どのような研究にも、光と影がある。うまく使えば人類の福音となるが、使い方を誤ると人類の脅威となる」(弘文堂『科学知と人文知の接点』)を紹介し、記事は「イノベーションは、その後の新しい時代を生きる人類に相応の責任と覚悟を迫っている」と結んでいました。
さて、こうなると、私たちは順次傷んだ臓器を交換しながら永遠の命を手に入れることになる、とでも言うのでしょうか。
少し調べてみると、理論上では可能ですが、現状では私たちの老化のスピードを遅らせることがかなわないかぎり、<125歳を人間の寿命の限界と考える>(寿命限界説肯定派)のが一般的な考え方のようです。なぜなら、老化を制御するスイッチは今のところない、つまり染色体の末端にある“テロメア(末端にある構造)”の操作は現段階では不可能だからだそうです。
しかしながら、iPS細胞作製という生物学的に新たな立ち位置を確保した以上、近い将来、確実にやってくるだろう「心臓などの臓器が量産品に変わる日」には、まず、少なからず私たち自身の問題として、<(老化しつつ)125歳まで生きる>相応の責任と覚悟を持たなければならない。このことは、シニア世代の就労年齢の拡大、行き着くところ、介護の軽重はともかく老化しつつ長生きする高齢者を支える介護の長期化を覚悟することになると思います。
私たちは現在、高齢者人口の急増<高齢化>のピークを迎える2025年(問題)を目前にして、さらに、その先は高齢者人口の増加が緩やかになるものの生産年齢人口の減少が加速<少子化>していくであろう2040年(問題)を見すえた中で、今後の国の施策論議を注視しながら法人の中長期計画を着実に進めていかなければなりません。
本記事は、飛躍的な長命という新たな切り口で、国や私たち事業者に<介護の保障>という課題(責任)を突きつけているように思います。
(理事長 矢部 薫)

暴風被害~台風15号による教訓~

「それよりも、先日の台風の被害はいかがでしたか」
伊豆七島の利島(としま)に住む友人からかかってきた電話で、開口一番、先方の用件を制して私が発言したものですから、少し間をおいてから、
「ここは30分くらいの停電で済んだが、場所によってはもっと時間がかかった。そうそう、僕は用事があって留守をしていて詳しいことは知らないが、先日、都知事が島の被災状況の現地視察に来た。家は大丈夫だったけど、物置の屋根が飛ばされて、雨に濡れっぱなし。これからでも少し片づけないと、と思っている。あとは、山の倒木が激しくて、後始末に時間がかかる」
と、冷静で簡潔な説明がありました。
これは、9月8~9日にかけて関東地方を直撃した台風15号の被害に関することで、10日も経っているというのに、千葉県、伊豆七島を中心に当初の見込みと違ってなかなか電気が復旧しない状況下での電話でした。
時はさかのぼって、50年近くも前のこと。私は、当時在籍していた大学のワンダーフォーゲルクラブの春合宿で、日本国への返還(本土復帰)を翌年(1972年5月)に控えた沖縄に行ったことがありました。今でも鮮やかに覚えていますが、那覇市内、特に平和通り(繁華街)はさすがに高層階の店舗が建ち並んでいて、一般住宅も含め鉄筋コンクリート(RC)造の多い、都会そのものでした。他方、石垣島、さらに西表島竹富島に及んでは、沖縄ならではの漆喰で固めた赤い瓦の木造建築がほとんどで、その分、私たち旅行者は異国情緒たっぷりの琉球のたたずまいを味わうことができました。
それから約30年後に、現在の親愛センター通所部の皆さんと沖縄本島を訪れた時には、よりRC化が進んで、観光スポット以外は軒並み“コンクリの家”ばかりとなっていて、本島に住む旧友の言うには「毎年のように台風が直撃するから、傷んで建て替えるたびにRCになっていくさ」ということでした。ちなみに、IJU.OKINAWA(現地発信型沖縄移住情報)によると、「総務省統計局2015年2月の調査では、沖縄県全体の94%がRC造、木造がわずかに5%で、戦後の<戦争による木材の不足とアメリカ統治>に、加えて<台風による災害>が大きな要因」とのことで、旧友の言をさらに裏打ちするものでした。
過去10年間の沖縄・奄美の台風接近数は年平均8個(気象庁調べ)で、しかもほとんどが日本の南東海上からの直撃で、今回の台風15号のような破壊力をもったものと考えられます。
毎日流れるテレビニュースの画面から、千葉県内の崩れた屋根に次々かけられた降雨対策用の青色シートの家並みを見るにつけ、前述のことが思い起こされるのでした。
加えて、本台風による電柱倒壊にまで及ぶ停電被害は、私の知るところでは、千葉県内の郊外では遅いながらも比較的早くに復旧したものの、電線が錯そうする市街地及びその周辺では困難を極め時間がかかっているとのことです。当初の電力会社の見込みよりもはるかに広範囲かつ長期に及んでいて、今なお電気のない生活を強いられているところも多く、最終的な復旧は月末の27日にもなるとの報道には、全く心を痛めます。
今や、水とともにライフライン(命綱)中の筆頭ともいえる電気の不通が、私たちの生活全般に及ぼす影響は大きく、冷房の利かない生活を強いられた高齢者が相次いで熱中症でお亡くなりになったほどです。
13日、夜7時のNHKニュースで、前述の現地視察を前にした小池東京都知事は「島しょ部などで電柱を地中に埋設する無電柱化の取り組みを加速していく考えを示した」との報道がありました。
これについて、『沖縄県無電柱化推進計画』(2019.3)によれば「地震津波、台風などの自然災害による電柱倒壊」の被害(予測)は深刻で、沖縄でも無電柱化は喫緊の課題だとのことです。
さらに、本台風は、携帯電話の一部の基地局を倒壊させ、電話・ファックス・メールなどの情報インフラをマヒさせてしまったと報道されています。
川越市ハザードマップ』によれば、親愛会の各事業所では、一部のグループホームで近くに内水による潜在的危険性のある区域があるものの、①地震 ②土砂災害 ③洪水 ④内水のいずれにも該当しないことが分かります。ちなみに、みどりのまち親愛の開設時の地盤調査及び飲用井戸掘り時のデータによると、地下100メートル付近に普通の機材では貫通できないような固い岩盤層がみられるということでした。
しかしながら、油断禁物!です。
まずは、現在、法人内の防災委員会で作業が進められている、携帯メールでの安否確認機能の整備を急ぎ、引続き食料品等災害備蓄品の充実に努めるなど、できる範囲の対策を着実に講じていかなければならないのだと思います。
(理事長 矢部 薫)

私の散歩道~武蔵野新田集落を歩く~

長短はあるけれど、十年以上にわたって続けてきた朝の散歩道は、特別のことがないかぎりいつも同じ道で、体調と時間に応じて、2キロ程度から10キロ、20キロと自在に変更(ショートカット)できるコースです。
そのコースの途中、県道8号線の案内標識「茶つみ通り」の起点、狭山市中新田交差点を過ぎたところを右折すると、人も車もめっきり少なくなります。資料『狭山の歴史講座「堀兼地区」』(狭山市民大学)のいう、「1649年に川越藩主松平伊豆守信綱の命により、着手された新田集落」内の、農家の門先を結んだ道路で、地区に住む友だちのいう通称「内道(うちみち)」ということになります。
この道路は、いわば「茶つみ通り」の裏道で、直線的な表道(県道)とは大きく趣を異にした生活道路そのもので、実際に、わずか1キロの間に製茶工場が3軒もあって、中でも最初に左手に見える工場は、古びた板塀の建物と、それに続く茶畑があいまって、この通りの名のゆえんを余すところなく語っているようです。
また、家々の庭先には、梅や桜、桃はもちろん、季節によって色とりどりのパンジー、ろう梅、牡丹、ふよう、むくげ、百日紅、もくせい、菊、葉牡丹などなどが咲いて、散歩者を喜ばせます。特に、サンシュユ、タイサンボク、セイヨウニンジンボクは珍しくて、それぞれの季節のころには、毎年、見入ってしまいます。
やがて、堀兼小学校入口(坂下)の左手に光英寺(1658年頃創建、真言宗)の山門が見えて、境内には念佛二億万遍供養塔があります。上記と同じ歴史講座資料を頼りに文字をなぞれば、「1727年2月建立、堀兼村の村民911人が南無阿弥陀仏の名号を2億万回唱えた記念に建てた」ということです。
折から、享保の改革期、1722年には年貢の徴収法が定免法に変わり、1728年には5公5民に引き上げられたという時代背景にあります。
ところで、真言宗にも同様の、光明真言百万遍(読誦)供養塔があります。ということから推測すると、“光明真言”によって大日如来に救いを求めたのではなく、あえて“念仏”を唱えて極楽浄土を願ったことになり(※寺でも経緯は不明)、当時の村民の心情がしのばれるところです。
寺の右手の急坂を走って登れば、小学校南門にイチョウの大木が植えてあって、秋にはぎんなんが道路いっぱいに落ちます。一昨年までは、それをいただいていたのですが、残念なことに根本から伐られてしまいました。
道なりに校庭のふちを東に迂回すると、右手の旧幼稚園跡地にぶら下がり高鉄棒があって、だらりと下がったあとには、背中を伸ばしたり、腕を回したり、散歩者たちがめいめいに運動していきます。
左手の小学校校庭の中央には、クスノキ大王松の大木があって、運動会時はさすがにじゃまになるだろうと想像できますが、夏には生徒たちに飛び切り上等の日陰を提供してくれるはずです。
その北隣に堀兼中学校が見えてきて、校庭ではアマチュア野球の練習風景・・・。体育館前の掲示板には、模造紙にしたためられた書が貼られてあります。以前は、石川啄木与謝野晶子俵万智の歌、正岡子規高浜虚子石田波郷の俳句などが月替わりで書かれてあって楽しみだったのですが、今は、ずっと『五つの誓い』(註:作者の腰塚勇人氏については教育界では広く知られるところですので、ここでは省略します)のままです。
正門前の自動販売機で水分補給をすませ散歩に戻ると、中学校の隣に慰霊碑が桜の並木の中に見えて、裏面には、当時の堀兼村で第二次世界大戦だけでも戦没者178人のお名前を見て取ることができます。
帰路はこの日の道のり6キロの半分以下、しかも川越城址まで続く細長い台地上のごく緩やかな下りの坂道です。ところどころは住宅地に転用されていますが、先ほどの新田集落を北側から帯状に包む雑木林と、さらにその北側に広がる次の集落の畑が接するところの“間の道”です。
かつて先人たちが開墾地に植林し守り続けて、公園のような景観を誇ったこの林も、この30年来というもの、薪炭用のナラもクヌギも巨木と化し、落ち葉掃きをしなくなった今では生い茂る灌木・下草が人をよせつけない。一部にはタヌキも出たとの話ですが、そうした中でも蛇もカブト虫も元気で、さらにクワガタ虫や、時に玉虫も見つけることができます。
さて、まもなく刑務所裏手の高い塀が左手の景色を遮っていって、中から“早朝体操”といったふうの、勇ましいかけ声が聞こえてきて、今回は、これで散歩は終了としました。
ところで、先月16日夕刻のこと、NHKニュース7で「新資料 昭和天皇との会話を記録した『拝謁記』独自入手 戦争への悔恨・反省 繰り返し語る 幻のメッセージ」の見出しで、「私(天皇)はどうしても反省という字を入れねばと思う」で始まるナレーターの説明により、初代宮内庁長官の記録文がテレビで紹介(情報公開)されました。
このことを加えて、今年の8月は、『平和なくして福祉なし』・・・地域で障がい者とともに生きともに老いて、一昨年12月に86歳で亡くなられた近藤原理氏(※実兄が長崎で被爆死)の言葉が、例年以上に重みを増したことでした。
(理事長 矢部 薫)

父ちゃん・母ちゃんのいた風景~画家・原田泰治の世界~

先月下旬のある日のこと、出がけの雨模様の空も、上諏訪駅に着くころには今さら梅雨明け宣言を聞く必要もないくらいに、真夏の青空が広がっていました。
目的地の諏訪市原田泰治美術館は、諏訪湖畔にあって、今から40年近く前に朝日新聞日曜版の表紙を飾った詩情豊かな水彩画でおなじみの原田泰治さん、その人の作品を展示した個人美術館です。
今回の美術館行のきっかけは、7月12日早朝に放送されたNHKラジオ深夜便『明日へのことば』「原田泰治(画家)・にっぽんのふるさとを描く」で、この日、私は枕元のラジオのイヤホーンで、タイミングよく初めから終わりまで聞くことができました。
番組は、インタビューに応じて、原田さん(79歳)が自身の生い立ちから今現在の活動までをていねいに答える形で進められ、聴取者を思わず原田ワールドに引き込んでしまうような心温まるものでした。
今でも記憶に残っているのは、
・1歳で小児まひにかかり両足が不自由になった。
・その不自由な足を、毎日、諏訪市内の温泉の湯で温めてさすってくれた生母を2歳で亡くした。
・その後、父親(父ちゃん)は自分のことを考えてくれたのか、足の悪い母親(母ちゃん)と再婚し、まもなく戦況が厳しさを増したため、一家は飯田市郊外の伊賀良村に疎開した。(※扇状地扇頂部での開拓生活)
・4、5歳のころには、近所の友だちが、見晴らしの良い高台まで、動けない自分を背負って連れて行ってくれて(置いておかれて)、その友だちの戻ってくるまで、自分一人で遠くを眺め、足元の草花や近くの石垣の一つひとつを眺めたりして遊んでいた。(「鳥のような俯瞰的な目」「虫のような目」)
・中学生になって、諏訪市内に戻り、転校するも、空を大きく入れた風景画は、先生から「要領がいい」などと評され、理解されなかった。(褒められず、自信を失う)
定時制高校に入って、昼間部の教室の廊下に貼ってあった愛鳥週間の全国ポスターコンクールに応募して“佳作”、次に林野庁の山火事防止ポスターコンクールに応募し、全国4千点以上もの作品の中から“2位受賞”。これがきっかけで美術の道に進もうと決心した。
というものでした。
その後の武蔵野美大入学以降は、画家としての原田さんの活躍については知る人ぞ知る話ですので、省略します。
さて、この美術館の理念は、
1、ナイーブアート(素朴画)の発信拠点とする
2、人に優しい美術館をめざそう(バリアフリー
です。私は、聞きなれない<ナイーブアート>にアンリ・ルソーの絵画を思い起こし、近年、障がい者絵画でもたびたび使われるアウトサイダー・アートアール・ブリュットにも近い用語かと考えを巡らせました。
実際に、会場内に展示されている企画展『花を見る旅』の作品(文)を一つひとつ鑑賞して歩くにつれ、私の記憶をたどれば昭和20年代、30年代の生家近くの風景に似て懐かしく、<素朴画>にかける原田さんの思いにふれたことでした。
帰り際に、玄関近くのコーナーで、繰り返し放映されているビデオ映像を眺めていると、名誉館長である親友の歌手さだまさしさんが映って「<細かいところをコツコツ描いていって、最後に大きく仕上げる>その手法は私の歌作りと同じ」と語り、加えて3歳年上だというおさな馴染みがにこやかに「けっこうガキ大将でした(存在が大きかった)」と本人を前に言っていたのが印象に残りました。
そういえば、玄関正面奥に原田さんの愛車だという赤い“まぼろしの名車トヨタスポーツ800”がピカピカに磨かれてあって、これも画家の人となりの理解に一役買っているのでした。
(理事長 矢部 薫)

福祉は人のためならず~法澤さんという自称”燈台守”~

6月も半ばを過ぎた頃に、謹呈本『福祉は人のためならず・Ⅱ』が送られてきました。“(その)Ⅰ”は、今から7年前の2012年春にさかのぼります。

本の著者、法澤奉典氏は、私が初めてお会いしたのが1989年(平成元年)11月12日、この日から2週間にわたって行われた『フィンランドセミナーと北欧3国社会福祉視察研修』(山下勝弘団長他20名)でのことでした。氏が若き日に県内の施設で仕事をしておられたこと、また県内に在住ということもあったのでしょうか、旅先のホテルでは、私とほぼ1日おきにツインルームでご一緒させていただいたのが始まりでした。氏は、14日に行われたセミナーで両国合わせて50名の参加者を前に、日本の知的障害者入所施設の現状を堂々と説明されていましたので、このことが今でも強く印象に残っています。もちろん、氏も私も当時、厚生省専門官であった中澤健先生の“ノーマライゼイションの現実を検証する”という大きな目的のもと、参加した私たち日本の福祉現場の職員にとっても、どう感じ、どう思うのかを併せて検証されているような研修でした。

このことについて、氏は自法人の理事長コラム『三代目燈台守』(2019.3.16“平成の愛光を振り返る(2)”)で「収容・雑居のわが国に比べて、北欧3国の障害者福祉は、まるで夢を見ているような印象を受けて帰国したものだった」(“平成最初の年の思い出”)と記述しています。

ちなみに、この視察研修で私たちが目の当たりにした「入所施設解体(グループホーム化)」の課題は、日本ではやがて浅野史郎氏の『施設解体論』につながっていくことになったのだと思います。

それから時を経て、2009年秋、法澤氏から私のところに「川越にご縁がある利用者がいて、いつか機会を見て川越市内の施設に戻したい」との電話がありました。おりから私たちの施設では、欠員(空床)が出たところなので、その年のうちに千葉県内の社会福祉法人愛光におじゃまし、久しぶりに法澤氏と再会を喜び、今回対象の利用者と面会(ヒアリング)を済ませました。

そして、その時の利用者、Tさんは翌年1月にいったん南の里に入居し、次の年の6月にはセンターに移動しています。

法澤氏との、そんなお付き合いがありました。

ところで、当該の本(Ⅱ)の巻頭には“社会福祉法人愛光 退職記念”と銘打ってあります。

改めて、“(その)Ⅰ”を手に取ってめくると、

「(1960年代の)そんな少年少女たちは、全共闘運動に走り、かと思うと、もう若くはないからとあっさり長髪に決別し、次は家畜ならぬ“社畜”と化して猛烈に働いてきたわけである。良くも悪くも会社人間、組織人間そのものだった。

ところが一方で、高度成長経済の申し子「無責任男」(註:植木等のサラリーマン人生を風刺した歌・映画「無責任シリーズ」が大ヒットした。)なんてとんでもない。そんな人間になりたくないと、会社嫌い・組織嫌い、穏やかに言えば組織を「敬遠」した者のなかに少なからず「福祉人間」がいた。それは戦後ずっと、経済が成長し、ひっそりと流れ続けていた“傍流”のような一団だ。激しく流れる本流に対して、それに呑み込まれないようにと、何がしかの政策的意図も働いて、細々と、ゆっくりとした流れの水路(措置制度)が確保されてきた。お金にも権力にも縁の薄い者たちが、その流れに身を任せてきた」(2008.3“春一番”より抜粋)とあります。

そんな時代もつかの間のこと、2003年4月からの支援費制度、2006年4月からの自立支援法により措置から契約の時代へ、そして一昨年4月からの社会福祉法の改正により運営から経営へと大きく軸足を変えて、現場では、やれ加算だとか、やれ減算だとかで神経をすり減らす毎日が続き、私もいつしか国の思惑どおりにガバナンスを口走ることが多くなりました。

こうした中、私の知る範囲でも、これまで障がい者福祉を支えてきた、かつてバリバリの“全共闘世代”でもあった先輩諸氏がぽつりぽつりと現役を退いていきます。その一方で、政府には労働力不足を背景に、将来的に75歳まで定年を引き上げるシナリオもあるという報道がささやかれ始めています。私たちの世代にとって引き際の難しい時代が始まりました。

(理事長 矢部 薫)