東北大震災復興「つなげよう日本!」〜岩手県を走る〜

4月5日号で、岩手県から宮城県沿岸部の思い出の記を書いて、そのままというわけにもいかず、5月連休から悶々としていたのですが、ある時“災害復興マラソン大会”のテレビ案内(字幕)が私の目に飛び込んできて、「まだ間に合う!」。調べると、「いわて銀河100kmチャレンジマラソン大会(6月12日)」なのでした。
才能というよりは強い意思とか、何かこう目に見えないけれども、・・・身体の素質というよりは、気持ちの素質というのは誰でも伸ばせる。マラソンの特徴として好きですね有森裕子―(NHKテレビ『ディープ・ピープル』)>
私のような還暦ランナーにとって、こんな言葉は大変有難い!これを頼みに、“災害復興”の一念で参加申込を済ませ、残り1か月弱をどう効果的な練習で乗り切るか。早速、新聞記事にあった「(1年かけて)5時間30分台のフルマラソンをめざす!」のメニューをなぞって、例年になく練習に明け暮れた日々・・・。幸い猛練習?にもかかわらず、足腰を冷やさなかったのが幸いして、故障もなく大会に臨めたのでした。
大会前日、出がけの大宮駅で東北新幹線の車体に貼られた「つなげよう日本!JR東日本」のステッカーを見た時には、少し涙がにじむ思いをしましたが、北上駅を降りてからは、すっかりマラソンモードに入っている自分がいました。駅近くの体育館で受付を済ませて、ここは100キロマラソンのスタート地点・・・、私はローカル線に乗り継いで、湯田温泉で前泊して、いよいよ大会当日に50キロ出発地点に立つと、「素晴らしいTシャツを着ていますね」「ええ、職場の仲間が応援メッセージを書いてくれました」「では、カメラに向かってメッセージをお願いします」「(月並みな言葉しか浮かびませんでしたが)岩手県の皆さん、がんばってください!」早速、地元テレビの取材があって、ここ一番、気合いが入ったところでした。何せ前も後ろも賑やかな寄せ書きTシャツでしたので、給水所で待ち受けるボランティアからも、沿道で応援してくれたお年寄りからも「有難う!」と声をかけられました。特に、鶯宿温泉を過ぎて、いよいよ残り7キロ・・・という地点で、交通整理に立っている婦人警官から「心のこもったTシャツですね。お宝になりますね」と声をかけられたのは、・・・(そう、自分のお宝!)本当に嬉しかったのでありました。
大会には関東地方からも大勢参加していて、東京都、神奈川県のランナーや埼玉県内のボランティアも多数いて、Tシャツの「埼玉」「川越」の字に気付くや、次々と声をかけてくれました。
よく言われる<練習は嘘をつかない>のか<体は覚えている>のか、ちょうどフルマラソンの距離42キロを過ぎたあたりから、私にとって“未踏の世界”、足腰は完全に激痛が走るようになって、それまで5時間そこそこで来ていたペースもがたんと落ちて、いつしか「走ったり歩いたり」・・・。すると黒地に大きな白抜き字で≪復興支援、ありがとうございました 大船渡≫と書かれたTシャツ姿の若者が落ちてきて、抜きつ抜かれつして・・・、私から「大変でしたね」と声をかけると、「皆様のおかげです」との声が返ってきて・・・、言葉を重ねるうちに、私は、この若者といっしょに走ることができて、中ら今回のマラソン大会出場の大きな目的が果たされたのを実感したのでした。そして、ついに「歩いたり歩いたり」、ほうほうの体で雫石の陸上競技場にたどり着いて・・・、タイムは6時間50分余、エントリー237人中の156番、自分自身としては満足の完走?なのでありました。(ちなみに、人気の100キロマラソンでは、14時間の制限時間内の完走者は70%しかいないのだそうです)
翌日は、盛岡駅前のレンタカーで片道90キロの道のりをひた走らせて、宮古市内に入ると、公園という公園には建設途中の仮設住宅が立ち並んでいるのが見えましたが、町はいつもの様子・・・。とりあえず、海岸へ・・・と思って、浄土ヶ浜方面へ車を走らせていくと、確かに右手の谷合いに見える町は・・・!、あのテレビで再三報道されていた景色?と寸分違わない、<廃墟>が広がっていて、思わず背筋を凍らせたのでした。被災の皆様に済まない気持ちを抑えて、車外から写真を撮らせていただいて、車に戻る私は「こんなに!」と呟く間もなく、涙がどうどうと溢れ出たのを今でも鮮明に覚えています。
なおも、被災地の中を走らせると、船は陸に打ち上げられ、魚市場は破壊し尽くされ、家々は土台を残して壊滅状態・・・、強烈な腐敗臭の中を瓦礫運搬のトラックが埃を上げて解体機械のもとへ忙しく走って行くのでした。
私は、災害復興の歌として度々歌われていた童謡『ふるさと』が思い出されて、「あれほど残酷な歌は無い!だって、家があって故郷だろう!家族がいて、友達がいて故郷だろう!なのに、今は田も畑も無くなって、だーれも居なくなって、もう故郷なんかじゃないじゃないか!」と、胸がつぶれる思いでただ言葉を繰り返したのでした。もちろん、車窓に見える海は、山は、不釣り合いなくらいに青くまぶしかったのでした・・・。
あれから1か月、この間、機会あるごとに、マラソンのことも、被災地のことも見るかぎりを友人、知人に話してきました。また、遅々として進まない国の災害復興支援策に苛立ち、大臣の答弁に激怒したことも事実です。
さて、私たちにできるボランティア活動にしても長期戦を強いられて、これからが勝負だとも言われています。今後、福祉サイドから計画的、組織的に要請があった場合には、親愛会としても、でき得るかぎりを支援して行きたいと強く思うのであります。
(理事長 矢部 薫)