平成24年度の漢字『見』

4月22日、恒例の新任職員歓迎会の席で、新年度の1文字漢字『見』(けん、みる)という字を発表しました。
昨年度は、『琢』、少し難しい字であったため、職員に意識的に広がったかどうかいささかの疑問が残るところですが、常日頃より職員自ら、また職員同士でお互いに切磋琢磨して各自の資質の向上に努めていただいたものと思います。

本『安岡正篤一日一言』(致知出版社刊)中、ある日の一言に、「知識・見識・胆識」とあります。内容文を引用しますと、
識にもいろいろあって、単なる大脳皮質の作用に過ぎぬ薄っぺらな識は「知識」と言って、これは本を読むだけでも、学校へのらりくらり行っておるだけでも、出来る。
しかし、この人生、人間生活とはどういうものであるか、或はどういう風に生くべきであるか、というような思慮・分別・判断というようなものは、単なる知識では出て来ない。そういう識を「見識」という。しかし如何に見識があっても、実行力、断行力がなければ何にもならない。
その見識を具体化させる識のことを「胆識」と申します。けれども見識というものは、本当に学問、先哲・先賢の学問をしないと、出て来ない。更にそれを実際生活の場に於いて練らなければ、胆識になりません。

とあって、深く感銘しました。
私たちは、学校教育で詰め込み主義などと言われながらも、とにかく「知識」を蓄積していきます。その知識をもって社会に出て、職種ごとに体験を積んでいきます。
体験ばかりを積んでいくと、いつしか知識の補充を忘れて経験頼みになります。経験頼みが昂じると過去の惰性でしか行動がとれなくなります。すると工夫が無くなります。工夫が無くなると身も心もマンネリ化に陥ります。
その結果、やることなすこと下がりっぱなしで、おまけにモチベーションまで下降の一途(“現状のレベル”)ということになると思います。代わりに、不平不満ばかりが増大の一途をたどることになるでしょうか。
こうなると、問題意識など持てるはずもなく・・・なのです。
モチベーションと問題意識とは相関関係があって、モチベーションのないところに問題意識は持ちようがありませんし、逆に問題意識のないところにモチベーションは育ちません。
そこで、解決の手段としてどうしても必要なのは、様々な専門研修・資格取得などにより、取りあえず“あるべきレベル”を見つけることだと思います。その“あるべきレベル”と“現状のレベル”の差異が、現状から脱却して上位のレベルにまで到達せねばならない課題、問題意識ということになります。このことをしっかり認識し、最善の方策を見出すこと、これすなわち<正当な臨床>(キャリア)を積むという意味合いにおいて「見識」をもつことに他ならないのだと思います。
次に、見識に磨きをかけて、これから進むべき方向性を決めていかなければなりません。余り見識が右往左往するようでは方向は定まりません。ここはしっかりとコトの本末、軽重を見極めなければならないところです。
見極めはしたものの、さて、次に進めるべきか、ここは思案のしどころ・・・などと迷っていると時間ばかりが過ぎていってしまいます。また、疑心暗鬼の心が湧いてきて、石橋を叩き続け、ついに叩き割って、自らを八方ふさがりに陥れてしまうようなことにもなり兼ねません。
そこは、胆(きも)を据えて考えて、そして肚(はら)をくくって実際にコトを進めなければならないところかと思います。
つまり、知識に見識をつないで、その先を見通して、そして、具体的に実行する力として、すなわち「胆識」が求められるのだと思います。
私たちは、この構造をしっかりと認識して生きなければならない、こういう構造にしかモチベーションは存在(継続)しない・・・そう言われているように思いました。

今年度の漢字『見』には、(見)(視)(観)「目で事物の存在などをとらえる」「視覚に入れる」「眺める」の他に「見物・見学する」、さらに(看)「そのことに当たる」という意味があります。
私たちの仕事である支援の本質は、利用者の皆さんの
①障がいをしっかり見る ②人間性を見て学ぶ ③人生を見守る
正に「見る」ことにあると思います。
そして、前述のようなきちんとした「見識」を積む、すなわち職員自らのものの見方、考え方を高めていくことこそが親愛会の行う福祉サービスの向上の原動力だと思います。
(理事長 矢部 薫)